障害者を対等とみる見方にもレイアーがある

こんなこと想像してみた。

目が覚めたとき、事故にあって足が不自由になっていたら?

車椅子の私。


その後の世の中と私の関係について正直に申しますと

車椅子だからって、私の活動を応援する人が増えたら、なんだか、それもそれで嫌だなぁと思った。

例えば、健常者の私がクラウドファンディングするより、障害者の私がクラウドファンディングする方が、たくさん集めれたら?

ここで「対等・平等」のニーズを刺激される歯がゆい感じがあります。

足が動かないのにすごいね、頑張ってね!って言われているような気がして。
これって、全然嬉しいことのはずなのに。

きっと私は、足が不自由になったら困る事があり、人に助けてもらう。

今、私の仕事は、世の中的にいうと「支援する側」という立ち位置になっているけど、本当は、私はそういう立ち位置が好きじゃない。

支援する、される、に分けたくない。

今の時代にたまたま同じときに生まれ、一緒の社会をつくる仲間なんだから、交換しあって当たり前。
支援しているつもりで、支えられてるし、気づきや学びや勇気をもらっている。

間違えないでおきたい。

支援する側は、支援される側になったとき、支援されたくないと思うような支援をするな。

私は想像してみた。車椅子の私のプロジェクトに、誰かが、私に、クラウドファンディングで応援する様子を。

「支援してると思われたくない」というのが分かりやすいのかも。そこに上下がうまれていそう。

車椅子だから大変なのにすごいね!支援するわ!って、対等感が感じない。

車椅子じゃなくても、健常者の私にクラウドファンディングで応援してくれるなら理解する。



ただ、ここで少し、対等のレイアーが変わる。

山田太郎が、ベッドに寝たきりの人と立候補すると聞いて、私は支援したいと思ってる。
それは、世の中が、「ベッドに寝たきりの人を議会に出すなんて?!」という意見が出るのが見えるから、まるで私は反発するように、その人が世に出ることで対等な世の中が作れるならと思ってあえて支援する。

さっきまでの話なら、寝たきりの方が「どんな公言するのか内容聞いてから支持する」なら筋が通るのに。

私はこういう人。

対等という目線でさえも、いろんな角度があるんだなぁ。


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