にゃるらはメンヘラをおもちゃにした

にゃるら氏は著作家、オタクライター、漫画原作者、シナリオライターと多岐にわたる活動を行っている。氏の活動は『NEEDY GIRL OVERDOSE』などで非常に有名である。

本稿はにゃるら氏への直接的な批判を目的とする。ことさらメンタルヘルス界隈への無理解と無思慮な行動については、徹底的にとがめられるべきであると断ずるものである。

『NEEDY GIRL OVERDOSE』は2024年6月の時点で150万本の売り上げを達成し、『INTERNET OVERDOSE』『INTERNET YAMERO』の合計再生数は7000万回を超えるなど、大きな反響を呼んだ。氏は現在、原案・脚本・総監修を務める全13話のテレビアニメの制作を発表し、2026年の放送を目指して制作が進行中だとしている。

さて、彼の代表作『NEEDY GIRL OVERDOSE』について、簡単におさらいする。

『NEEDY GIRL OVERDOSE』は、一人の若い配信者「あめちゃん」を主人公とするゲームである。彼女は「世界一かわいいインターネット天使」を目指し、日々の配信活動を行う。しかし、その裏では精神的な不安やストレスに苛まれており、プレイヤーは彼女のマネージャー兼恋人として、その心身の管理とキャリアの両立を図らなければならない。

本作では、配信者という存在の光と影がリアルに描かれる一方で、選択肢によって彼女の人生が大きく分岐する。成功の裏には、彼女が抱える精神的負担や危険な行動が描写されており、一部のエンディングでは過激な結末を迎える場合もある。

IGN Japanの記事では、精神疾患の当事者から「本作の精神疾患と服薬の取り扱いは不適切。エクスプロイテーション(過激であったり話題であったり搾取的な表現で耳目を集めるもの)といわざるを得ない」と指摘されている。

Vtuberとの不適切な交際も噂されている氏だが、本稿ではそこについては触れない。あくまで一人間としての感想を書く。

まずメンタルヘルスに対しての思慮のなさには辟易するばかりである。わたしは病気の当事者として声を大にしていうが、このような軽率なメンタルヘルス事象の戯画化が世間に与える影響は明々白々である。

『NEEDY GIRL OVERDOSE』のストーリーにおいても、主人公の配信者「あめちゃん」が抱える精神的問題は単なる「物語の都合の良い道具」として扱われているように感じられる。精神疾患が引き起こす苦痛や、それに伴う複雑な社会的背景について、深く掘り下げる姿勢は見られず、むしろ物語をエンターテインメントとして成立させるための刺激的な演出として消費されている。

こうした作品が持つ影響力を考えると、精神疾患への偏見や誤解を助長するリスクは無視できない。さらに、これが若い世代に受け入れられ、拡散されることで、メンタルヘルス問題がより一層軽視される可能性がある。こうした点を踏まえると、氏の創作における無思慮な態度は、社会的にも非常に大きな問題であると言える。

にゃるらは正当な言論を論点ずらしによって封殺している。

https://note.com/nyalra2/n/n5214bedd6490 より引用開始

 けれども、面白おかしく盛り上がれればいい人たちにとって事実は関係がない。「にゃるらはファンネルを使う卑怯者」と不当に叩かれることとなる。
 (中略)
 数カ月後、僕の本名を使って悪さや人格攻撃をする集団が現れる。
 まあ、一定の人間が本名弄りされることは珍しくもなく、攻撃性は高いけれども「こんなものだ」と認識していた。すると、彼らは正当性を得て加速する。

氏の本名の問題などどうでも良い。そういう事実があったとして、先んじてファンネルを使って卑怯な戦いをしたことは事実ではないか。名字の話にすり替えているのは意味不明と言わざるを得ない。

 が、ネットなんてこんなものである。タイミングが違えば、僕が現代の若者ならこんなノリのままタイムラインへ馴染んでいてもおかしくはない。これもまた大人になってしまった自分の務めに思える。彼らの遊び場に水を差すのはやめよう。放っておけば収まるのだから。

これが氏の冷笑的スタイルである。正当な批判には都合が悪いから黙って矛先を別問題にすり替える。実に愉快である。「彼らの遊び場に水を差すのはやめよう。放っておけば収まるのだから」だと? 巫山戯るのもいい加減にしてほしいものだ。正当な言説に目をそらし続けている。

ツイートを遡る。うん。対話ができない相手ではない。なんなら、思想と現実の不一致ゆえに暴れている。単純に話を聞いてみたい。僕はノンフィクションをフィクションに取り込むタイプの人間です。
 『ボウリング・フォー・コロンバイン』でのマリリン・マンソンは、「おまえのせいで学生の銃撃事件が起きた」と非難轟々のなか、インタビューにて「黙って話を聞いてやれ」と答えた。何が少年を狂わせたかを取り上げるのに大衆が必死な最中、混乱のド真ん中に巻き込まれたマンソンだけが少年の心情を想った。

ここまでくると氏のナルシズムには諸手を挙げて賞賛せざるを得ない。引用の仕方も絶妙である。氏の筆致はたしかにすばらしい。が、言説に惑わされてはいけない。

問題は精神疾患の取り扱い方、それ一点である。

最後に氏の発言を貼って終わりとする。

 別に僕はまったく品行方正でないので批判も仕方ないが、「自身のコンプレックスの処理対象」として執拗に僕を攻撃する人々、「にゃるらを倒す」と息巻く若いサブカルたちに時間は少ない。いや、そもそも僕を目の敵にしたっていいが、それとは関係なく手を動かさなければならぬ時が来る。「誰にも話を聞いてもらえない」悲しみや怒りを、就職の形で社会の多忙に焼却させていいのか? 『花束みたいな恋をした』を観たか? 憧れの自己表現は、自分がいかにオタクでサブカル者で、時にゴシック者な傾奇者であるかの発露は、労働なんかじゃ満たされない。

徹頭徹尾意味不明である。

ここでサブカルたちではないわたしがサブカルたちに変わってにゃるらを倒そうと思う。

にゃるらを、『倒す』。

氏は《徹底的》に批判されるべきだ。

メンタルヘルスの問題は、決しておもちゃのように取り扱ってはいけない。鬱病患者の裏には、どれだけ多くの家族の心配があって、境界性人格障害の少女の影には、どれだけ多くの葛藤があるかを、氏が理解しているとは到底思えない。たとえば、解離性人格障害のいきづらさ。たとえば、躁鬱がどのようにいきづらいか。たとえば、統合失調症がどのような経緯で思考盗聴されているのか。氏はなにひとつ理解していないのだ。

それなのに、それを戯画化しておもちゃにしようとしている。

それを今度は公共の場でやろうとしている。

わたしはメンタルヘルスの当事者である。不快感は覚えないが、ここまで徹底的に馬鹿にされているんだからそれを馬鹿にする権利くらいはあるだろう。

このようなずさんな言説を放っておいていいのだろうか。

草。
本当に、《インターネットやめろ》。

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