いじめと贖罪。罪は消えないのか。
いじめられた経験のある人なら、その残虐性と被害者の心の非可塑性についてよく認識していると思う。
よく「いじめられる方にも原因がある」という言葉があるが、これは例外なくいじめた側の言い訳である。正しくは「いじめでしか問題を解決できない」いじめた側のコミュニケーション能力の不足が問題なのだ。
正直に話す。僕はいじめをやったことも、受けたこともある。
受けたいじめの方はこの際置いておく。受けた精神心的ダメージは20年近く経った今でも引きずっているものだが、話が脱線してしまうのでここでは取り扱わない。
僕のやったいじめ。それは小学2年生。席がとなりの女子に執拗に口汚い言葉を浴びせ続けた。
いじめは、彼女が助けを求めた上級生から、直接僕が忠告をうけたことで、「これ以上やったら許さないから」の言葉が決め手となって終わった。
いじめの原因は、兄から同じように言葉のいじめを受けていたことによるストレスだった。
「ばかじゃないの」
兄から投げかけられた言葉を、あろうことか僕は他人に転嫁してしまった。
そんな悪意の連鎖が悲劇を引き起こす。
今でもこのことを思い出すと、苦しい気持ちになる。
驚かないでほしいのだが、従弟の"兄"にも当時いじめを行っていた。
彼は軽い知的障害があり、僕に対抗できなかったのだ。
ここまで書いていて本当に「しょうもない」という気持ちに苛まれる。僕は小学2年生にして何をしているのか。
ここで本題に入る。この罪は、消えないのだろうか。いじめの加害者は一生良心の呵責に苦しむべきなのだろうか。
アニメ「宇宙よりも遠い場所」という作品がある(以下ネタバレをお詫びする)。
南極で行方不明になった南極大陸観測隊員の娘・報瀬が、様々な背景を持った登場人物たちとともに、母親の手掛かりを求めに南極に向かう青春ストーリーだ。
登場人物の一人、日向は、高校の部活動での「ハブり」がきっかけとなって高校をやめている。
女子高生というウリで広報役として南極行きを果たした面々であったが、ある日南極から日本への実況中継を行った際、テスト配信中に日向に謝罪したいという人物が現れた。
日向をハブった元同級生であった。
日向は平静を装っていたが、その実、自分でもコントロールしかねるほどの怒りに内心苛まれていた。
報瀬はその一部始終を目にしてしまい、友達として日向に向き合おうとする。
日向は「気持ちはありがたいよ。でも余計なことはやめてくれよ」の一点張りだったが、配信本番日になって画面に現れた日向の元同級生に向かって、報瀬は切々と語る。
要約すれば「日向が苦しみ続けているとでも思った?そんなことはない、今は前を向いて充実した日々を送っている」「人を傷つけた代償くらい背負っていけ」
そして最後にこう言い放つ。
「いまさら何よ。ざけんなよ!」
以上である。かなり端折ったし、自分の要約の下手さに絶望しているところだが、僕の感じたこの作品のエッセンスを絞るとこんな感じになる。
「いまさら何よ。ざけんなよ!」
この報瀬の言葉を聞いてスカッとした僕は、間違いなく「いじめた罪は贖罪できない」、そして「一生背負っていくべきだ」という考えを抱いている。本心に嘘はついていないはずだ。
だって、何もかもが遅すぎるのだ。
今更僕が彼女に謝った所で、何が解決するのだろうか。
彼女が心の傷をいまだに癒せていないとしても、逆にそんなことはお構いなしといった風を吹かせて順風満帆の日々を送っていたとしても。
余計なお世話なのだ。考えてみれば簡単なことである。
それでも心が痛むのは、罪悪感から逃れたい独りよがりのせいだ。
単純なことである。これ以上は考える必要がない。
結論として言えば、人は究極の自分可愛がりのエゴイストだ。
その認識にたてば、様々なことをフラットな視点で見ることができる。
いじめをコミュニケーション不足が原因だと認識する僕の視点もここに由来する。
「臭い」同級生がいたとする。
「言葉が汚い」同級生がいたとする。
「あなたを攻撃してくる」同級生がいたとする。
そこで、その同級生へのいじめに参加することを堂々と拒否できる生徒は残念ながら少数派だろう。クラスの空気には抗いがたいのである。
だが、その行為が人を傷つけていることはしっかり認識してほしい。
僕はいじめの加害者として彼女・彼が無事に過ごしていることを祈る。届かないだろうからあえて祈る。それすらも自分の心を落ち着かせるための言い訳にすぎないのであるが。