見出し画像

『地獄の黙示録』の心臓 ②T.S.エリオットとキプリング

 ノーラン監督の『オッペンハイマー』を観たら、オッペンハイマーの若いときの蔵書としてT.S.エリオットの“THE WASTE LAND(『荒地』)”がチラリと映っていました。

『オッペンハイマー』より


 『地獄の黙示録』でもT.S.エリオットの詩がたびたび引用されています。
 なぜ『地獄の黙示録』ではエリオットが引用されたのでしょうか。エリオットとはどのような詩人で、英米人にとってどのような存在なのでしょうか。

 『地獄の黙示録』でエリオットが最初に引用されるのは、ウィラード大尉がカーツ大佐の“王国”に辿り着いた直後です。
 デニス・ホッパー演じるカメラマンがウィラードに向かって早口でまくし立てながらカーツについて説明します。日本語字幕では次のように訳されています。

「 心を広げてくれる。
彼は軍人で同時に詩人だ。
ある時は挨拶しても見向きもせずに行っちまう。
かと思うと肩をつかんで言う。
“人生では『もし』を考えろ。
もし悪人呼ばわりされても君は自分を信じるか?”
おれは虫ケラ、彼は偉大な人だ。
“私はひび割れた爪で海の底を引っ掻いてる” 」※1

 「人生では『もし』を考えろ」とはどういう意味なのでしょうか。「私はひび割れた爪で海の底を引っ掻いている」とはいったい何のことなのでしょうか。
 このセリフには重要な内容が含まれています。採録シナリオを参照すると元のセリフは以下の通りです。


            PHOTOGRAPHER
The man's enlarged my mind. He's a poet-warrior in a classic sense.
I mean, sometimes he'll-well, you say hello to him, right?
And he'll just walk right by you and he won't even notice you.
And then suddenly he'll grab you and he'll throw you in a corner and he'll say
"Do you know that the 'if' is the middle word in 'life'? If you can keep your head when all about you are losing theirs and blaming it on you. If you can trust yourself when all men doubt you."
I'm a little man, I'm a little man. He's a great man.
               (a beat)
"I should have been a pair of ragged claws scuttling across floors of silent seas."


 これを直訳すると以下のようになります。


               カメラマン
「あの人は俺の精神を広げてくれた。あの人は昔で言う武人詩人なんだよ。
つまり、あの人に挨拶するだろ?
するとアンタを無視して行っちまうことがある。
それなのに突然、アンタの肩を掴んで壁に押し付けて、
“ if (もし)” という言葉の綴りが “ life (人生)” の綴りの真ん中にあるのを知っているか?
“もし皆が我を失って自分を非難しても、自分が冷静さを失わなかったら―
もし皆から疑われても、自分を信じて自分を疑う人間さえ許すことができたらー”
なんて言うんだ。俺はちっぽけな人間だ、ちっぽけなんだ。あの人は偉大なんだよ。
                 ( 間 )
“いっそ私なんか蟹のハサミになって、静まり返った海の底を引っ掻きながら這い回るしかないんだ”ってことなんだよ」(拙訳)

『地獄の黙示録ファイナルカット』


 町山智浩が指摘するように「もし皆が我を失って……」という部分はキプリングの『もしも』(1895年発表)という詩の一節です。そして「いっそ私なんか蟹のハサミになって……」という部分は、町山や立花隆が指摘するようにT.S.エリオットの『J.アルフレッド・プルーフロックの恋歌』(1911年頃発表)という詩の一節です。※2,※3

 カーツ大佐が詩を詠むという設定自体は原作『闇の奥』の“クルツ”の描写に倣ったものです。ただしその詩がキプリングやエリオットだというのは映画化の際の創作です。
 カメラマンが暗誦できるほど、カーツ大佐はこれらの詩を繰り返し朗読していた、ということなのでしょうか。

 「いっそ私なんか蟹のハサミになって…」という描写は自分を卑下する表現です。生命力に溢れた女性は泳ぎ回る魚に例えられ、対して自信の無い男は海底を這い回る蟹に例えられるそうです。


 さて、『地獄の黙示録』の原作『闇の奥』とT.S.エリオットには深い関係があります。エリオットの『荒地』は『闇の奥』から大きな影響を受けているのです。『荒地』の献辞は当初、『闇の奥』内の有名な台詞
「恐怖だ!恐怖だ!“The horror! The horror!”」
となるはずでしたがエリオットの恩師の助言で変更されたそうです。

 「もし皆が我を失って…」という部分はキプリングの詩の引用です。
 ルドヤード・キプリングは『ジャングル・ブック』で有名なイギリスの詩人、小説家です。ノーベル文学賞も受賞しました。
 一方でキプリングはイギリスの帝国主義的な思想を体現する“大英帝国の桂冠詩人”と批判されることがあります。
 キプリングには『白人の責務』(“White man’s burden”1899年)という詩があります。「米英系の白人ならばその意味が心理的に理解できる」(藤永茂)といいます。つまり『白人の責務』とは、黒人や東洋人、有色人種は白人が啓蒙して教え導かねばならないという人種差別を詠み上げている詩なのです。
 スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』でも、ジャックとバーテンダー・ロイドとの会話の場面でこの詩を引用しています。
 この詩を引用することによって、ジャックが人種に偏見を持っている人物だと仄めかしています。もっとも『白人の責務』の引用はキューブリックの創作ではなく、スティーブン・キングの原作に倣ったものです。

 キプリングがアジア人を教え導かねばならないと考えていたように、カーツ大佐もベトナム人を指導しなければならないと考えていたという設定なのでしょう。

 もっとも、『地獄の黙示録』の撮影時(1976年)のずっと前から、デニス・ホッパーはこの『もしも』という詩に親しんでいました。
 『イージー・ライダー』(1969年公開)の大ヒットで監督・主演のホッパーが時代の寵児となっていた1970年9月30日、彼は『ジョニー・キャッシュ・ショウ』というテレビ番組に出演してこの『もしも』という詩の全文を暗誦したことがあります。
「『もし』(IF)という綴りが『人生』(LIFE)という綴りの中にあるのを知っているか」というフレーズもこの番組の中で言いました。 ※4
 また1976年にはボブ・ディランのコンサートの前座でホッパーはこの詩を朗読したそうです。

 ヒッピーのような反体制派だったホッパーが帝国主義の守護者であるキプリングの詩を朗読するのは不自然で矛盾しているように思えます。それとも当時キプリングは帝国主義思想の体現者とは認識されていなかったのでしょうか。

 実は、ホッパーの俳優としての経歴は詩の朗読から始まりました。ホッパーは高校生の頃、演劇朗読のコンテストで何度か優勝しました。そして古典演劇の舞台に立つようになったのです。

 また、1950年代のビートニクでは公衆の前で詩を朗読する行為が流行していた。


 キプリングには『王になろうとした男』という小説もあります。イギリス人の風来坊がインドの奥地で王と崇められるが破滅してしまうという寓話だ。
 小説『王になろうとした男』はジョン・ヒューストン監督によって映画化されました。ショーン・コネリーとマイケル・ケインが二人のイギリス人を演じました。どことなくコンラッドの『闇の奥』に通じるものが感じられます。

 コッポラの音声解説によれば、カメラマンのセリフの大半はコッポラとホッパーの二人が即興で作ったそうです。

 キプリングとエリオットという組合せに意味はあるのでしょうか。
 ベトナム戦争時のアメリカの国務長官、ロバート・S・マクナマラは『マクナマラ回顧録』の中でキプリングとエリオットの詩を引用しています。この回顧録は『地獄の黙示録』の公開10年後に書かれた本です。

 

※1:『地獄の黙示録ファイナル・カット』販売:(株)KADOKAWA、2020年
※2: 町山智浩『〈映画の見方〉がわかる本』洋泉社、2002年、161ページ
※3: 立花隆『解読「地獄の黙示録」』文春文庫、2004年、156ページ
※4: https://youtu.be/xlfnm9gV52w?si=4yqt-7s8pDPBiUSf  
2024年5月17日閲覧


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?