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キュンキュンだけが恋じゃない【#恋愛小説が好き】
「他人は自分を写す鏡」
とは、よく言ったものである。
柚木麻子・著『伊藤くんAtoE』を読みながらこの言葉を思い出して、久しぶりにページをめくる手が止まらなくなった。
容姿端麗だが、プライドが高く毒舌なボンボン・伊藤くんとその周囲の女たちを描いた短編集である。
まぁ、この伊藤くんという男が、ホントしょうもない。
職業は予備校の国語教師だが、それだって親戚のコネ。シナリオライターになりたいらしいが、何一つ書き上げたこともない。そのワリに他人の批判だけは、いっちょまえという薄っぺらさ。
自分のことを好きな女は粗末に扱い邪険にするクセに、いざ捨てられそうになると、慌ててすがりつき追いかける。
一転、一目惚れした相手にはストーカーに変貌する。
ハッキリ言って、クズ。女の敵だ。
なのに、こんな男が好きで好きでたまらないという女性が存在する。
なんで、こんな男がモテるんだろう。
友だちがこんな男に惚れ込んでいれば、「やめちゃえば」と忠告するし、家族だったら絶対反対する。
誠実で大切にしてくれる男というのは、この世にゴマンといるのだ。
この本には、伊藤くんに惹かれてやまない女、嫌悪する女、さまざまな女たちが登場する。
彼女たちは、コイツがダメな男だと薄々勘づいている。
ダメだと思っていながら、目を離さずにはいられないのだ。
なぜなら、
「だけど、自分を変えたいんだよ。このままじゃ嫌なんだよ。なんとかしなきゃいけないのはわかってるけど、一人じゃどうにもならないんだ……。とにかく、今ここじゃない場所に行きたいんだよ……。」
と訴える伊藤くんは、一歩踏み出すのを恐れる、もうひとりの自分だからだ。
現状の自分に満足している人って、どれくらいいるだろう。
家族と折り合いが悪い人、なかなか希望の職に就けない人、さまざまだと思う。
うまくいかないことを他人のせいにしたり、運が悪かったんだと諦めたり、カッコ悪い自分を見ないフリしながら生きている。
恋愛ひとつ、とってみてもそうだ。
いつだって、不安、焦り、嫉妬と隣り合わせ。
楽しい瞬間なんて、あっという間だ。
伊藤くんを見ながら、自分だってそう誉められた人格者じゃないけど、コイツよりマシ。
といった微かな優越を、登場人物と共に読者も味わえる。
意外と意地悪な自分の本音に気づかされて、読んでいてがく然とするけれど。
柚木麻子という作家は、隠しておきたい醜い本音を炙り出すのがウマイなぁと思う。
この伊藤くんも、実在のモデルがいるとかいないとか。
伊藤くんを嫌悪しているはずの読者も、いつの間にか彼から目が離せなくなるのだ。
…伊藤くん、なんてオソロシイ男。
伊藤くんを通して複雑な感情を味わい、経験を重ねた彼女たちは、どんな結末を選ぶのか。
どの作品も読後は、不思議と爽やかな風を感じさせる。
伊藤くんの存在以外は。
ラストで明かされるこの男の本音に、ぞわぞわ。
女たちは変化していくのに、伊藤くんときたら…。
誰からも傷つけられたくない、伊藤くん。
彼が40代50代の中年になった姿を見てみたい。
現実に自分の身近にいたら、全力で逃げるけど。