FULL CONFESSION(全告白) 3    「無思考」としての「天才バカボン」

GEN TAKAHASHI
2024/5/4

基本的に映画作家・GEN TAKAHASHIの作文。

第3回 「無思考」としての「天才バカボン」



 私は、ほとんどモノゴトを「考えない」種類の人間だ。 
 脚本を書いて映画を創るし、現在もボランティアで他人の裁判にかかわったり、選挙を手伝うこともあるけど、それらの私の生活は「無思考」のまま行われている。

 でも、モノゴトの「判断」はする。

 「歩く」という人間の基本的な動作にしても、健康な人なら「右足の次に左足をこれくらいの間隔で前に出して…」といった歩行の段取りを、無意識の判断の連続で行っている。これは「考えた=思考」の結果の動作ではない。
 でも、いまの私のように右足の感覚がなくなると、右足の出し方と着地のさせ方を、一歩ずつ意識して歩くことになる。そうしないと転ぶからだ。

 これが私のいう「判断」と「無思考」の違いだ。

 たとえば「楽しい」という感情は、思考ではなく、知覚と感性による「判断」であるはずで、こういった理屈も、思考の果てに出てくる能書きではなくて、自分の持つ語彙の中から最も適当だろうという言葉を、瞬間的な「判断」で組み立てて書いたり話したりするのである。
 哲学の話のように思われるかもしれないけど、これは単に、生きている以上は次々に迫られる「判断」のメカニズムについての話だ。

 私にとって、脚本を書くのは面倒だから好きじゃないけど、書かないと出資者や俳優やスタッフが、私やプロデューサーがどんな映画を創ろうとしているのか「判断」できないから、私も書くのである。

 裁判ボランティアも、原告や被告が争う相手は悪いやつだと「判断」するから正しいと思える側に加勢するのだし、こうした活動は損得を行動律にしちゃいかんよな、しかし、こっちもカネには限りがあるから自己犠牲を払うほどの参加はやめとこう、と「判断」する。
 くどいけど、それは「思考」じゃなくて「判断」なのだ。

 だから「脚本とはなにか?」だとか、「司法とはなにか?」といったことを、私は考えない。

 脚本とはなにか?ではなくて、今度の映画の脚本はこうやって書くと「判断」して、具体的に一篇の脚本を書くだけのことだ。
 さらにいえば、同じ題名の脚本を初稿、2稿、3稿と改稿するごとに、一貫した法則性に沿って書くわけではない。
 初稿では、初見で理解しやすい、シナリオ講座で教えるような脚本を書くが、準備稿という撮影の3段階前の脚本になれば、スタッフも俳優もとっくに内容を共有しているから、突然「シーン30 良きロケ場所で全部即興」などという場面が書かれていても、誰も驚かないのである。
※ちなみに、準備稿のあとは、決定稿→撮影稿になりまして、撮影稿が実際の映画制作現場での指示書になります。

 また、司法とはなにか?ではなくて、今度の裁判官どもは、また例によってバカ揃いだなと判断して(日本の裁判官でバカじゃないやつは100人に1人だ)、わが方の弁護士もそれに合わせて弁護活動の戦略を練るし、稀なことではあるが、この裁判官は司法の鑑だ!と感心することだってあるのだから、「司法とはなにか?」という抽象論は不毛だと私は「判断」しているわけだ。

 脚本とはなにか?司法とはなにか?
 または国家とはなにか?芸術とはなにか?
 自分の結婚生活とはなにか?親子関係とはなにか?
 などということを「考える」こと自体が、考えようとする対象との距離を遠ざけている。
 モノゴトは、考えているうちに、どんどん変化するからだ。

 すなわち、「考える」よりも「判断」の連続ができる人ほど、いわゆる成功することになる。

「いやいや待て待て。無思考でなにかをやるよりも、いろいろと考えてやるほうが失敗することは少ないはずだ。いい加減なことぬかすんじゃない!」
というような反論には、ブーメランとして昔からある日本の言葉「バカの考え休むに似たり」を投げておこう。

 私は一切興味がないけど、株式投資を例に引けばわかりやすい。
 専門家の情報を買ってまでして、あーでもない、こーでもない、なんとかの法則では…などなど、素人投資家はいろいろ考える。
 でも考えているうちに1分で市場の動きが変わって、考えていたことが無駄になる。結局は儲からない。

 私の友人にも、投資で、ある程度の利益を出している人がいるけれども、話を聞けば「要するに転売稼業です」という。
 1時間前に誰も買わない株を持っていて、それが1時間後には誰でも欲しがる株に化けたときに転売することで、その差額が儲けになるだけのことだから、到底、考えている行動ではない。
 それは思考ではなく、いまその株を売ったほうが得か、もう少し上がる気もするから値動きをみてから売るかという「判断」だけの話で、どっちに賭けるかの丁半博打とまったく同じだ。

 こうしてみれば「無思考」という態度が、特別に無責任なことじゃないことがわかる。
 
 ところが、「考えることに支配されている」タイプの人間が世の中にはもの凄く多いと私には感じられる。つまり「考えはするが行動はしない」という人が多いのである。選挙の投票率などに顕著だ。

 いったい行動のなにを恐れているのか?

 だって「考える」というのは、だいたいの場合、なにかを喪失する危険があるから、行動を決める前に「考える」わけで、命の安全を含めて自分の利益になることなら、「考える」までもなく、得するほうを選択する「判断」が優先されるのだから。
 フラれるのが怖いけど、もしかしたらOKの可能性もあるから告白しようかどうか「考える」というのは、もうそれは「考える」ということではなくて、単に行動することを恐れているだけのことだ。

 これまでの自分を支えてきた自我(エゴ)や自尊心(プライド)、価値観が変わることを恐れる人たちは大勢いる。
 「判断」を間違えて、自分の人生観まで変わってしまうことになるなんて恐ろしいことになるくらいなら、どちらを選ぶということは止めておこう、恐ろしいことは考えないようにしよう、という態度で生きようとする人たちが多くいる。
 これは「考える」とか「判断」するという話ではなくて、仮定の結論や空想や妄想の域にある感情の話だ。もちろん、それが悪いわけではないし、所詮は生き方の「趣味」でしかない。

 ここで、ようやく本稿の表題につながるのだが、私がモノゴトを考えないが「判断」の連続で生きているというお手本は「天才バカボン」なのである。

 赤塚不二夫先生とは1回だけお会いしたことがあるけど、「天才バカボン」は宇宙の真理にリンクしているから世代を超えた傑作になっているのだ。

「バカボンのパパ」の決め台詞が、雄弁に物語っているではないか。
「これでいいのだ!」は「判断」であって思考ではないのだ。


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