FULL CONFESSION(全告白) 12    低予算映画演出

GEN TAKAHASHI
2024/7/24

基本的に映画作家・GEN TAKAHASHIの作文。

第12回 低予算映画演出


 たとえば『ロッキー』。映画を観ないという人でも、題名くらいは聞いたことがあるはずの、1976年公開のアメリカ映画だ。この映画1本で米国内から世界のスター俳優になったシルヴェスター・スタローンの一大出世作である。

   あのテーマ曲と共にフィラデルフィアの町をランニングするシーン。ロッキーが、路地に面した市場を走り抜けるとき、果物屋のオッサンがポーンと放り投げた1個のリンゴを走りながらキャッチする。あまりにも有名な歴史的な移動ショットだ。
 
 リンゴを投げたのは、役者でもエキストラでもなく、リアルな果物屋のオッサンだった。映画を撮影しているのは理解しているが、自分の脇を通り抜ける瞬間、スタローン演じるロッキーに、遊びのようにリンゴを投げ渡し、スタローンもそれに見事に応える演技へと昇華させた、奇跡的なショットである。
 私は『ロッキー』を観るたびに、このショットで号泣する(「エイドリアーン!」じゃなくて)。

 この撮影時点では、スタローンが誰にも知られていない、まったく無名の俳優だったことで、このショットが、より感動的な伝説となって語り継がれているのだ。
 走るスタローンを前からの移動撮影で捉えた映像には、市場で買い物をしている客たちが「なんか撮影やってるよ」的な笑顔で、誰だかわからないスタローンを見ている姿が映っている。
「本物のボクサーだと勘違いしてリンゴを投げた説」をよく見るが、スタローンは単にスウェットを着て走っているだけで、台本の内容を知らない果物屋のオッサンには、スタローンがボクサー役だとわかるはずはないから、私はオッサンの「遊び心説」を主張している。
 
 あのテーマ曲が鳴り響く、一連のトレーニング風景でのリンゴ投げシーンの撮影現場には、もちろん音楽は流れていない(まだ作曲すら出来ていない)。
 そこにリンゴが投げ入れらたのだが、このとき、走りながら見せたロッキーの表情は、ロッキーではなく「スタローン」の顔だ。
 まだ音楽で盛り上がる前の、淡々としたロケ現場で、しかし歴史的傑作にむかって走るスタローンが、その手応えとしてのリンゴを市場のオッサンから受け取った瞬間の記録が、このショットなのであり、だから私は映画人として泣くのだ。

 このリンゴを投げた果物屋のオッサンは、映画『ロッキー』が世界を席巻することになる1年後に仰天しただろう。そして撮影に立ち会ったフィラデルフィアの人々の誇りとして記憶される映画が生まれた。
 『ロッキー』が、もし潤沢な予算がある映画企画だったら、奇跡は起こらなかっただろう。

 私に限らず、長いこと映画を撮る仕事している者は『ロッキー』には遠く及ばないまでも、奇跡的なショットが撮れたという経験をしている。普通の人でも、何気なく撮った写真が奇跡的な瞬間だったということがある。共通するのは「予算」や「計画」では撮れない映像だということである。

「予算があればCGでいくらでも奇跡的なシーンができる」という人もいるかもしれないが、CGはまさしく計算された画像処理で設計するもので、奇跡的なショットであるはずもない。
 映画のショットで人々が感動するのは、それが撮影された瞬間の「神」から与えられた「人知を超えた力」を目撃するからだ(奇しくも、今月米国で起こったドナルド・トランプ暗殺未遂事件での、あの写真も同様)。

 私の持論だが、映画は低予算であるほど優れた演出を生む。
「演出」というのは広範な意味を持つけど、基本的には「見せ方」のことだ。見せ方は、カネがなくても、人間力だけで、いくらでも工夫できる。
 私の過去作から「低予算映画演出」の代表例を挙げてみよう。

『ポチの告白』(2005年製作/日本公開2009年)
 https://video.unext.jp/freeword?query=%E3%83%9D%E3%83%81%E3%81%AE%E5%91%8A%E7%99%BD&td=SID0058735

 舞台は警察署である。日本では、どんな大手企業製作の映画であっても、警察署をフィクションの映画撮影に借りることはできない(外観だけなら、公共の建物だから撮っても構わない)。
 撮影所のスタジオにセットを建てれば済むけど、セットというのは、みなさんが想像するよりも、はるかに高額の費用がかかる。セットの規模や撮影日数によるけど、小さめのセットをひとつ作るのにも、最低800万円くらいからの予算が必要になる。

 まず、セットを組むためのスタジオ自体のレンタル料がかかる。資材を運び込んでセットを建てている間も1日数十万円単位の基本料金が発生する。もちろん、美術会社に払う費用は別になるし、撮影が終わってもバラシ(解体作業)に最低1~2日かかるので、さらにスタジオ使用料はかかる。なので、この世に存在しない風景を作ろうという映画以外では、そう簡単にセットは建たない。
 だから、自主映画に限らず、メジャーなテレビドラマでも製作費削減のため、常にどこかのビルを借りては警察署に見立てて撮影している。

 『ポチの告白』では、埼玉県の坂戸市役所を丸ごと借りて、警察署に見えるように撮影した。
 詳しくは言えないが、地元の有力者の伝手で、閉庁している日曜日・祝日だけ、市役所を無償で借りられる算段がついたのだ。

 本作は警察批判の映画なのに、最後のクレジットタイトルにも撮影協力として「坂戸市役所」の名称が記載されている。
 これがどれほど「掟破り」なことか、一般の方には理解できないかもしれない。同じ地方公務員同士で、特に自治体と警察の関係を察すれば、この映画に市として協力したばかりか、その事実をエンドロールで公にしているのだから、当時の坂戸市長の胆力はかなりのもので、私は市長の「義」に今でも敬意を表している。 

 こうした水面下の協力があってこそだが、建物の構造自体、風景としては警察も市役所も、ほとんど同じだ。看板を隠して貼り紙を付け替え、玄関前にエキストラの警官を立たせて、パトカーの赤い回転灯の照明を当てたら、じゅうぶんに警察署である。

 冒頭の『ロッキー』と同じく、つまり、低予算映画演出というものは、職業映画人の資力や能力だけで成立するものではない点が重要なのである。

『ロッキー』では、ロケ地のフィラデルフィアの地元住民たちが、カネではない心意気から協力し、撮影に溶け込んだ素人のオッサンの「リンゴ投げ」で歴史的名場面が生まれた。
『ポチの告白』も、普通ならあり得ないロケ協力によって、主演・菅田俊が主演男優賞を受賞した「警察犯罪映画の金字塔」(私が自称したわけじゃない。どこかのレビューがそう評していた)が撮影できたのだ。

 他方、すべてが「カネ」だけで作る大手企業の映画では、町の住人や公的機関との交渉を「トラブルの元になる」と面倒くさがるスタッフが主流で、まったく話にならない。
 ロケ先と交渉するにしても、実際に、企業映画人には、ある種の「特権意識」のような、自惚れ上がった勘違いで、映画を作っている者が多い。

 ドラマだか映画のロケで、撮影の邪魔にならないようにと、通行人を誘導するスタッフがいるけど、中にはモノも言わずに交通誘導の棒を振って、人さまをどけようと野良犬のように扱うバカがいる。
 何様だと思っているのか、プロデューサーや監督が、きちんと指導していないから、こういうボンクラがスタッフ面(づら)して偉そうにふるまっているのだが、人気があるテレビドラマのロケなどにその傾向が強い。
 ちなみに、公道でのロケ撮影で、人避けのために交通誘導をすることは丁寧に声がけしながらだとしても道路交通法上の不法行為になる。

 企業人がトップの映画製作は、例外なく勘違いしたプロデューサーや監督が仕切っている。人間力ではなくカネで動かせばいいという発想しかないからだ。
 逆に、カネでは動かないロケ地に出くわせば、もうどうすることもできないから「あの町は撮影協力しねえから、セットで撮るか風景だけ撮って合成でいい。偉そうにしやがって」などと、本末転倒の悪口を言い出す始末だ。

 われわれのような「低予算で当たり前」のインディペンデント系映画人は前述のように、普通ならあり得ない撮影許可を取りつける「信頼感」「共闘関係」といったものが大事で、そこから奇跡的なショットが生まれるのだ。

 どの国の映画界でも同じことがいえるのだが、映画の名場面といわれるものの、ほとんどすべてと言って良いくらい、それは「低予算映画演出」によって誕生している。


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