FULL CONFESSION(全告白) 8 虚構の社会
GEN TAKAHASHI
2024/7/15
基本的に映画作家・GEN TAKAHASHIの作文。
第8回 虚構の社会
私は基本的にSNS否定論者で、自分の生活利便性以外のところでは、SNSにかかわらないように暮らしている。
私にとってのSNSとは「地球全人類おしゃべりシステム」で、虚構のおしゃべりが好きな人たちだけが楽しんだり、虚構を商売にしていれば良いものだ。もっとも、本稿を発表している当該の「note」もSNSのひとつだというけど、私の感覚では不特定少数に向けての一方的な寄稿だ。
ところが、iPhoneにニュース配信アプリを入れていると、よくわからないトピックが、どんどん自動的に送られてくる。
そんな中、都知事選後に「石丸伸二氏をモデルにした劇映画『掟』」が公開されるとのSNSニュースが配信されていた。
同作映画の企画・製作を務めたという奥山和由氏は、私も面識があって、現在でも、たまにLINEで近況報告を交換している有名な映画プロデューサーだから、このニュースに目を留めた。そのついでに、普段は見ないSNSでの「コメント」とか「リプ」というものを見る羽目になってしまった。
すると、現在世界の常識だというSNSは、私の想像をはるかに超えた、まあ、頭がくらくらするほどの「虚構の世界」ではないか。いつから全人類が発狂したのか?と思うほどである。
ついでに、石丸関係ではない、YouTubeの討論番組のようなものも、いくつか見てみた。前にも書いたが、私は映画関係を除けば、YouTubeは、料理系、美味いもの探訪系以外は見ない。
この時期、都知事選ネタが雨後の筍のごとく、といえば筍に申し訳ないほどの、よくわからない虚構の言語が、白アリ(昆虫の種目ではゴキブリだという)のごとく、SNS界に湧いているのである。
虚構というだけならマシなほうで、そこで飛び交うコメントたるや、もう、すべてが酔っ払いの、適当極まる乱痴気騒ぎ同然の、テクノロジーはこれほど無駄に使われているのかという証左がSNSなのである。
SNS界には「アンチが湧く」という言い方があるらしいが、そういっている主体も白アリには違いがないのに、つまり、日本語をわかっていないまま、虚構のデジタルおしゃべりを延々と続けて、しかも、それらは半永久的に複製され続けて伝播し続けるというのだから、聖書もコーランもびっくりだ。
付言しておけば、「アンチ」という語は、昭和時代からある和製カタカナ英語だ(ネイティヴ発音だと「アンタイ」)。
でも、昔は「アンチ」のあとに、その対象となる人物や組織、食料から社会現象に至るまで、具体的な「被アンチ対象名」をもって述べられていた。
たとえば、昔の大阪人(新宿生まれの私も昭和46年までは大阪人)やったら、野球は「アンチ巨人」に決まっていたのだが、それでも、ちゃんと「巨人」がついていて「アンチ」だけ言っても、なんのアンチだよ?ということになっていた。
こうしてみると、現在のSNS界における「アンチ」とは、「被アンチ対象はなんでもいい」ということを意味していて、コメントだかリプだか知らないが、SNS界でおしゃべりする人間たちは、とにかく相手が誰でも何にでも、なんなら天気や宇宙さえ「アンチ」の相手にしてしまう、かなりおかしな新種の人類だということがわかる。
対象を小馬鹿にする発言から、不法な誹謗中傷、刑事罰の対象にもなる脅迫に至るまで、程度の差で問題の大きさが違うだけで、SNS界の住人は、本質的にSNSというデジタル時代の新たな神話を共有しているという意味では同質主体だといってよいだろう。
言語や宗教や思想や法が虚構であるとを指摘した、イスラエル人の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが著した世界的ベストセラー『サピエンス全史ー文明の構造と人類の幸福』(2014年)での学説を借りれば、こんにちのSNS界での「デジタルおしゃべり」の源泉は、7万年前に人類に起きた「認知革命」まで遡ることができる。
ハラリによれば「認知革命」によって生まれた人類の一種目「ホモ・サピエンス」こそが、われわれ現生人類の始祖だという。
そして、デジタル・テクノロジーから派生したSNS界は、いまや「SNSサピエンス」とでもいえる「完全に新たなヒト科」を生んだというべきだろう。
簡単にいえば、われわれホモ・サピエンスは、7万年前に独自に創った、または自然発生的に備わった、人類社会全体の、そして、個人それぞれの虚構のなかでしか生きられないのである。
もはや御しきれない無限の虚構(あるいは人類というひとつの虚構)は、凄まじい支配力で人間社会を形成しているから、それに抗って現代社会の中で生きることの難易度はもの凄く高いことになる。
ただ、絶対的かと思われているSNSの呪縛から逃れる方法は、拍子抜けするほど簡単だ。それは「SNSにかかわらなければ良い」だけのことである。
だけれども、現在、SNSは多くの商行為(政治家の宣伝を含め)に不可欠な行程だと、ほぼ全人類が信じているからSNS抜きの人生や政治、経済があり得ないとされている。
全世界が「天動説」を疑わなかった時代と何が違うというのか。かの哲学者・プラトンですら、間接的にせよ天動説を認めていたのだ。
たかだか、2024年時点での人類の多くが、SNSがなければ世界が崩壊するなどと強弁することは大ぼらでしかあるまい。
私はインターネットを利用するが、SNS界の住人ではない。だから、私の悪口雑言や誹謗中傷がネットのどこかに書かれていても、私が見ないのだから、私自身が被害を訴えることはない。
虚構の世界の白アリが気の済むまで好きなように私の風評被害を拡大させればいいのであって、そんな者にカネと時間を使うほど私は暇ではない。
もちろん、私の目の前に、オフラインの存在としてやって来てふざけたダボラを吹くやつがいたら、私の方が逮捕されるようなことが起きても不思議ではないのだが、そうなると私は「スシロー」をつまみに呑むこともできなくなるから、その意味で私への誹謗中傷は遠慮して頂きたい。
ところが、このあたりもSNS界とは不思議なもので、SNSで口げんかをしている両者が、いざYouTube番組で対面しても殴り合いにさえなっていないのだ。だったらSNS口げんかのままでいいだろうよ。なんのために生身の肉体の主体と「アンチ」を揃えて番組などをやっているのだ?
そんなことをSNS界に詳しい人に聞いたら、要するに、すべては「視聴回数稼ぎ」なのだという。私は若い俳優やスタッフから「監督、そんなことも知らないんですか?」と呆れられた。知るわけがない。だって、映画には「切り抜き」なんて商売はないからな。あったら、ただの盗作だし著作権法違反だ。
SNS界という、人類史からいえば昨日にさえ生まれていないような、まったく新しい虚構によって、その10倍以上の歴史を持つ映画界が駆逐されているのだから、映画自体がおかしくなっていて当然だ。
映画界の人間が、なんの疑問も矛盾も感じないままSNS界に移住したようなもので、映画と呼ばれるデジタル映像はスクリーンではなくインターネット配信で視聴され、その観客の感想が、家族や友達でもない、見知らぬ他人同士で「炎上」させられて、SNSなしではショービジネスが成立しないと、多くのアーティストたちが怯えている有様なのだ。
さて、私は、国内外を問わずに、よく美術館を散歩する。ニューヨーク時代も、MOMA(ニューヨーク近代美術館)や世界最大の美術館として知られるメトロポリタン美術館を、週に1度は眺めて歩いた。たまに展示作品が変わるし、同じものを何度観ても飽きない。
なぜか?常に「本物」が観られるからだ。美術館はSNS界とは真逆の空間で、こうした環境の中にしか「芸術」は発生しない。
映画の場合は、空間に加えて「時間」が必須の成立条件になる芸術だから、時空間の影響がないSNS界には、本物の映画が発生しないのである。だから私はSNSにかかわらない。
もちろん、こうした私の世界観も虚構だから、私は自分自身が虚構であることを理解している。文明という虚構の中の時空間を生きることが、生命維持活動=生活を営むという意味だ。
他方、今般のSNS界の住人たちは、自分たちが虚構の世界に生きているという「認知」がない。
だから、自宅のカウチで酒を呑みながら、気軽な憂さ晴らしで書き込んだ誹謗中傷が、人を自死に追い込むことも理解できないし、実感できないのである。
SNSによって「現実感」を麻痺させた人間は、この世界が虚構であることを知らないということだ。銃で撃てば人が死ぬという現実それ自体が、人類が創り出した虚構の中にある世界なのだと理解している者は、インターネット空間も「深層が表層化した虚構」だと無意識でわかっている。
このコラムの何回目かに書いたことだが、私はほとんどモノゴトを考えない。それはこの世界自体が虚構であることを理解しているからだ。そして、だからこそ、私は映画を創る人生を選んでいる。
なぜなら、映画とは虚構の世界を映す鏡であって、それを観る虚構の存在たる私たちが「現実とは何か?」を知覚するための仕掛けだからである。
前掲の歴史的大著『サピエンス全史ー文明の構造と人類の幸福』(柴田裕之 訳)の最後は、次の一文で結ばれている。
『唯一私たちに試みられるのは、科学が進もうとしている方向に影響を与えることだ。私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、「私たちは何になりたいのか?」ではなく、「私たちは何を望みたいのか?」かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分に考えていないのだろう。』
『自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?』