FULL CONFESSION(全告白) 16 映画の演技と配役の難易度
GEN TAKAHASHI
2024/10/12
基本的に映画作家・GEN TAKAHASHIの作文。
第16回 映画の演技と配役の難易度
映画興行を前提とする商業映画では、配役(キャスティング)という、ものすごく難易度が高い作業がある。
では、商業映画じゃなければキャスティングは難しくないのか?と聞かれたら、その通りなのである。
商用目的ではない趣味の自主映画や、基本、自主映画だが買い手がいるなら売りに出そうという映画(ここ30年ほどはインディペンデント映画などと英語でいうけれど、私の映画の大半がこれにあたる)は、誰も知らないド素人が主演でも問題はないし、映画全体が途方もない駄作であっても、作る側の趣味だからどうだっていいのである。売れなくたって。
しかし、少しでも売りたい映画を製作しようと思ったら、有名芸能人か、無名だけど観客の度肝を抜くような名演をみせる俳優を出さないと、まず客が来ないことになる。自主映画だからといって「お仲間派閥」だけをキャスティングしても、ロクなものにならない。
私はいわゆるスタジオ映画の監督歴もあるけれど、多くは「お仲間派閥」キャスティングで自主映画を創造してきた。ところが「お仲間」だと思っていたのは私だけで、「お仲間」たちは、私が大病を患って(2020年に脳梗塞を発症)カネの回りが悪くなったと知るや、ほぼ全員が雲散霧消で私のまわりからいなくなった。
だいぶ昔の話だが、私の映画に億単位のカネがいつでも動いていた時代には、うちの事務所は毎日宴会をやっていたような賑わいだったし、レストランにも毎度5人、10人を連れて行って、当然、支払いはすべて私がしていた。中には、私がまったく関係していない劇団の、公演中の劇団員10名くらいの呑み代を、私に払わせるためだけに呼んだ役者兼座長もいた。頼まなくても私が払うことを知っていたからだ。
こうした連中は、景気が良かった時代の私を「利用できる」という気になっていたのだろう。
当時の役者のひとりが「監督(私)は友だちがいないからカネをばらまいてんだよ」という陰口をたたいていたと、人づてに聞いたところで、私は怒ることもなかった。ただ「そういう人間はなにをやってもダメだろうな」と思っただけで、事実、当時から20年以上経っても、そういった連中は、なにひとつ達成していない。
話を戻すが、私はそのような人間たちを、映画の創造を共有する「お仲間」だと錯覚したまま、多くの自主映画を製作してきたのである。
そうして創った映画の多くは、商業的にはほとんど売れなかったといって良い。
一方、いまでも配信で人気がある私の最大のヒット作『ポチの告白』は、製作費は商業的な映画会社が出資して、出演した俳優のほとんどが「お仲間」ではない、プロデューサーのキャスティングによる作品だ。
その後、私の作品に常連的に参加してくれるようになった風祭ゆきさんや、野村宏伸君、余計な話題だが先ごろ離婚を公表した井上晴美も『ポチの告白』でプロデューサーらが推薦した俳優だった。
つまりは、私には映画の「お仲間」の俳優など、はじめからいなかったようなもので、一部の者を「お仲間」だったと仮定しても、その主演作が売れた事実はないのである。
まあ、とにかくそうした「お仲間」キャスティングは廃絶しようと決めたのが昨年末だった。
そして今年に入ってから準備が進んでいる新作では、徹底した実力主義のオーディションで配役を決めていった。
決定した主演俳優、女優らとは個人のLINEはもちろん、一切の連絡先も交換せず、すべて事務所を通じてしか連絡をしない。あたりまえの「実力登用」へと意識的に切り替えたのである。
ただし、実力主義といっても、映画のオーディションは、俳優としての実力を審査しているのではない。脚本に書かれた「役」に合うかどうかを選考するのが俳優のオーディションだ。
だから、私の過去作にも出演して、呑み行くことがある役者でも、あくまで今作の脚本では、旧作とは違う「役」のためにオーディションに来てもらった上で配役が決定した。
オーディションは、その人自身の演技的な力量を審査するわけではなく(だいたい、そんなものをどうやって審査するのだ)、作品ごとの「役」にとって最良と思われる俳優を選考するための作業だ。
わかりやすい例では、演技力は一定以上だと認められても、顔のタイプや見た目の年齢が「役」に合わなければ採用は見送りとなる。
20歳のヒロインを探しているオーディションに40歳の女優が来ても普通は落選するし、オッサンが来たら書類選考ではねられる。アジア民族の「役」のオーディションなのに、白人種の俳優が来たら、民族差別ではなく、あたりまえに落選する。
その意味で、映画の俳優オーディションというのは残酷なまでに「スクリーンにどう映るのか?」という外観がモノをいう。芝居はあとから訓練しても身に着くものだけど、「存在感」というものは、職業訓練的に醸成されるものではないからだ。
また、よくあるケースとして、演劇界では実力派で知られる俳優が、映画のオーディションでは残らないことも珍しくはない。私が使う言葉だが「演技的属性」が違うからだ。
舞台の上での演技と、映画の演技は、根本的に異質なものだ。
簡単にいえば、舞台演劇では客席の位置によっては、俳優の表情さえ見えないこともある。映画では映画館の一番後ろの席であっても、俳優がアップになるシーンが見えないなどということは起こり得ない。従って、舞台演劇と映画における演技は、技術的な理由で異なっている。
再現性という観点でも、一度撮影された映画は何度でも「同一の演技」が上映されるし、何十年経っても同じだ。演劇はそうではない。
学術的にも、映画は「記録芸術」といわれ、演劇は「表演芸術」として分類されている。
これについては、昔、世界的なイギリス人俳優のマイケル・ケインが書いて、国際的なベストセラーにもなった『映画の演技-映画を作る時の俳優の役割』という本に詳しく書かれている。この日本語版の翻訳者は、英語に堪能なベテラン俳優・矢崎滋氏(現在は一切の芸能活動から引退した)で、プロの俳優による映画の演技論の翻訳は評判になった。
俳優志望者やプロの俳優でも読むべき名著だが、残念なことに日本語版はだいぶ前に絶版となっていて、残存する書籍は何万円もする超プレミア価格になっているから入手は困難だ。どこか日本の出版社が新規の翻訳出版権を買えばいいのに、たぶん元値も高額なのだろう。
さらに演技の属性や俳優本人の技量とはまったく関係がない、いわゆる「共演NG」だとか、スケジュールが合わないといった業務上の理由で採用が見送られることもよくある。
中には、オーディションで俳優本人が合格したのに、後から事務所が「共演者がウチのタレントのイメージを下げる」という理由で、俳優本人の意思確認さえせずに、事務所として辞退するなどということもあった。もし、こちらが合格決定を出しておいて、身勝手にひっくり返したなどと、俳優本人に虚偽説明をしていたら、名誉毀損の不法行為を構成するほどのふざけた話だ。
俳優自身も「そんな共演者、嫌だ!」などと言っていたとすれば、もはや俳優失格である。そういう俳優は、ただの企業の広告係でしかない。
それ以前に、事務所、事務所と威張るなら、はじめから共演者の情報を確認してからオーディションに来させろよといいたいが、要するに、こんな者どもはテレビ芸能界(企業スポンサーが最も大事な世界)で商売をしている連中だから、そもそもが映画の創造とは、欠片も縁がない。
そんな者たちまで参加してくるものだから、一口に映画出演俳優のオーディションといっても、単に俳優の演技的実力だけでは判断できない、ものすごく難易度が高い作業なのである。
こうして、私の新作では今年に入ってから、およそ6カ月かけて主要キャストのオーディションを継続して、先日、ようやく主演俳優が決定した。いよいよ具体的に映画の足音が聴こえてきたというべきか。
長らく「お仲間」キャスティングを主流にしていた私にとって、2024年から始めた本質的な意味での俳優オーディションは、とても新鮮な創造意欲に駆られる経験だ。
今回のオーディションの成果が、映画の創造をどのように導くのか、私自身が一番楽しみにしている。
この映画が日本国内で公開されるのは2026年の予定である。みなさん、久しぶりの私の自信作に、ご期待下さい。
オーディション参加者は、徹底した守秘義務合意書に署名しているから、情報解禁日まで業界の誰に聞いたって、どんな映画かはわからないはずである。もっとも、映画の場合はそれが普通なのだがSNS時代になってから、いろいろとおかしなことも起きるようになった。
万一、私の新作についての情報を聞いたという人がいたら、私のウェブサイトにあるメールアドレス宛てにお知らせ下さい。
GEN TAKAHASHI 公式ウェブサイト「映画の創造」
https://www.gentakahashifilm.com/