FULL CONFESSION(全告白) 15 記憶の編集
GEN TAKAHASHI
2024/9/8
基本的に映画作家・GEN TAKAHASHIの作文。
第15回 記憶の編集
「夢を計画的に見たり、記憶を自在に編集できるようじゃなくっちゃ、本物の作家とはいえないな」とは、寺山修司監督の映画『田園に死す』に登場するセリフだ。
私は寺山作品に強く影響を受けているから、この言葉は十代の頃から丸暗記しているわけで、実際に計画的に夢を見る訓練も積んでいた。
これは比較的に簡単なことで、その日の朝から寝る直前まで「おれは空を飛ぶ夢を見るのだ」と思い続けたら、たいてい、その夜には空を飛ぶ夢を見るのである。
こんなことは誰にでもできることなのだが、いまの世の中、十代から受験勉強やゲームやアルバイトやSNSに忙しくて、誰も計画的に夢を見る訓練などやっていられないということで、睡眠中でも夢を見ないから、現実社会での「夢」を実現することも、ひどく困難に思えるという人々が多くなったのだろうと、私は仮定している。
さて、「現実社会」という語を私は使ったが、私のような量子力学的死生観を持つ者は、そもそも「現実社会」などというものが存在しないことを認知している。
こういう話をすると、なんだかんだと反論、反発をもって、私に敵対する連中が多い。「おまえは能書きばかり言っているが、ぜんぜん社会で成功していないし、有名でも富裕層でもないではないか」ということを私に思い知らせたいようなのだが、これこそ「非現実社会的」な妄想なのである。
現実性、現実離れ、現実感、現実主義などなど、「現実」という語の慣用句は、なんの疑いもなく「いま現に存在する出来事」という意味で使われている。
ところが、凶悪な連続殺人事件や予測しなかった株の大暴落のニュースを目の当たりにすると、「現実社会」の人々は、「こんなことは現実とは思えない」などと、矛盾することを言い出す。
量子力学の世界では「人間が観察すると状態が変化する」ものが「現実」なので、観察する人間の数だけの「現実」がある。
だから、人さまを掴まえて「おまえの考えは現実的じゃない」などというのは、量子レベルで間違っているのである。
実は、量子力学と映画は大変似ている。
私はどちらかといえば、ヤクザ、警察、裁判所といった「現実的」な主題の物語映画を創ってきたのだが、根源的には、量子力学的な発想が大きく作用している。
映画は1秒24コマの写真が、連続投射されているだけの、すべては「静止した映像」だ。アニメもそうだし、テレビやYouTubeで見る映像も、モニターを構成する、赤・青・緑の極小の発光体が点滅しているだけで、実際にはなにも動いていない。
これは、量子力学でいうところの「観察した時点で存在する現象」と同じで、当たり前の話だが、映画は観なければ存在しないのと同じだ。私の監督映画を観た人には、私の映画は存在するが、観ない人には存在していない。
この説を意識的に利用して演出すると、まあまあ悪くない仕上がりの映画になる。
さて、話を冒頭の寺山のセリフに戻すが、計画的に夢を見ることは容易なのだが、「記憶の編集」はそう簡単ではない。だからこそ寺山自身、映画『田園に死す』の主題を「記憶」にしたのである。
「記憶の編集」が困難なのは、そこに爪痕(つめあと)があるからだろう。
思い出したくもない記憶を削除しきれないのは、人間の「精神」があるからで、逆に人間としての精神を持たないサイコパスは、息を吸うようにウソをついて生きながら、自分に都合の悪い記憶を自在に編集でカットする。まさしく、映画でNG場面をカットするように。
ただし、それが許されるのは映画だけであって、表層世界でいうところの「現実」という、量子が構成する物理的な世界では許されないことになっている。端的には、殺人という行為がそれに該る。殺人場面がある映画は、多くの人が平気で観ているが、「現実の殺人」には恐怖する。
ところが、量子力学的には映画の中での殺人も、「現実」での殺人も同じことなのである。なぜなら、宇宙にあるすべての出来事は「観察」によって成立しているからで、しかも、「成立」するからといって「実存」するわけではないのである。
最近では、こうした基本も知らずに「映画という名の現実的な製品」を製造するだけの自称・映画監督ばかりで呆れているのが、およそ「現実的ではない」私なのだ。