やっぱり俳句が好き
読書作文指導を春から続けている男の子。
だいぶ書く力もついてきて、ニガテだった漢字もたくさん書けるようになって来ました。9月に入って、始めた当初とは違うニーズが出てきました。
国語や文章の読解が出来るようになりたい。
自分なりの解釈や、読んだ文章、経験した出来事からいろんなことを感じ取るということはたくさんやってきて、そこにつながること、表現することに関しては途上であるとはいえ、慣れてきて上手になってきているなと思います。
自分なりの解釈ではなく、論理的に読む、ということが出来るようになりたいのだろうと思い、文学的文章と説明的文章の論理的読解のために、まずはもっとも短い文学的文章である、俳句を用いて読解の練習をしています。
ちょっと申し訳ないなと思うのが、僕が俳句の読解や解釈をするのが大好きで、置いてけぼりになってないか心配というところ。ついてきてね!って思ってやってます。
ここ2回でやったのは、正岡子規の「幾度も雪の深さを尋ねけり」と、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の二句です。
17音という短い字数に、その瞬間の感動を出来るだけ盛り込むこと、はっとするような作者の観察眼から感じられる心の動きが詠じられていること。
適当に有名な俳句が並んでいる中で、本人が気になるといってくれた句を扱いました。
正岡子規のほうは、一度自分なりに解釈したことがあり、雪がどれくらい積もっているか自分の目で確かめたくとも確かめられない、病床にある作者のもどかしさと、雪が積もったのだとわかるくらいの冷え込みをまだ体で感じているという、命があることへの執念のようなものを感じられて、心に残る一句です。
そして実は、芭蕉の「古池や」の句について、解釈したことがなくて、何で有名なのかしら、くらいにいたんですが、生徒と一緒に考えていく中で、なんとも面白いことになりました。
なんとなく夏の句なのかなと思っていたところ、蛙は春の季語。春なんだね~と思いつつ、いろいろと解釈をしました。
正確な知識というのもやはり大事で、蛙という虫偏の字から、蚊をイメージしていた彼は、その時点で的確に読み取れないということを学びました。いろんな語句にふれること、本を読むこと、今の私たちのルーツにつながる古典にふれること。そういうことの大切さが伝わるといいなと思いました。
次に、彼は、「かえるを捕まえて、池に投げたのでは」と推察しました。自由な発想はよろしい。ただ、それでは「飛び込む」と意味が合わない。「投げる」は他動詞、「飛び込む」は自動詞。蛙は自分の意思で飛び込んだのでは、と僕は返しました。自由に発想してみて、その根拠がどうか、考えてみることが、論理的な読解には不可欠。妄想や空想ではなく、想像をすること。
そのほかにも、古い池の色のイメージ、何があるか(苔)。蛙が池に飛び込む音の音量がどれくらいか、その音が聞こえるということは、どういう場所か(静かな場所)。
そして、どうしてこの句が春の句なのか。
桜を見て、春が来たなと感じる。風が暖かくなって、春めいてきたなと感じる。もちろん、これらも大切な四季の移ろいを感じるポイントです。しかし、ありきたりといえばありきたりです。
芭蕉は、蛙が池に飛び込む音から、「春の暖かさ」を感じたのでは?
ここで、蛙がどういう生き物か、科学的な観点からアプローチしました。蛙は両生類で、変温動物。温度の変化というのはその生き死にに大きく関わる大切な現象である事を伝えました。蛙などがもぞもぞと動き出す春の訪れのことを啓蟄ということを伝え、蛙が動いている時点で、春らしいはず。
加えて、池の水温も、蛙が飛び込んでも大丈夫なくらいの温かさになっていたのでは。
自然界の生物は、いのちを守るのに必死です。考えなしに池に飛び込まないはず。
そういうことを踏まえたら、池にぽちゃんと蛙が飛び込んだ音を聞いて、芭蕉は「それほどにも、この古池のあるところまでも春の暖かさが行き渡っているのだ」と感動したかもしれません。
この、芭蕉の観察眼と、春めいた言葉は一切使わず春の暖かさを伝える技量。改めて名句だなぁ、と感じました。
「学校にも行っていないのに、なんで知ってるんかね」と疑問が湧いたようで、「きっと、昔の人は自然と共に暮らしていたから、そういうことが当たり前だったのかもしれんね」と返しました。
俳句を一緒に読み解くの楽しいよ~。一緒にやりませんか?