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『月に踊るならこんなふうに(If you dance on the moon, it like this)』

 その日は、月が冴えた夜だった。
 藍色の夜空に、絵筆でキャンバスを横になぞったような鈍色の雲が、いくつも浮かんでいる。柔らかい絵の具を散らしたように点々としている光は星で、それらはきっと、僕が生まれるよりも遥かに以前から配置を変えていない。ある意味では、規則正しく並んでいる。
 雲や星には我関せず、といった顔で、月が仄明るい光を放っていた。目測では満月に見えるが、後に調べてみるとまだ満月ではないらしい。半月と言い張るには、いささか大きすぎるそれは、一体なんと呼ぶべきなのだろう。ふと考えてから、ああ、と気づく。それは月だ。だから、月と呼べばいい。そう思った。
「また変なこと考えてるんですか?」
 僕の少し前を足取り軽く歩いていた彼女が振り返った。どうも、また考え事に熱中していたらしい。僕の悪い癖だ。
「変なことと言われれば確かにそうだけど、いや、これは大事なことだよ」と僕は言い訳をする。
「それは、恋人をエスコートするよりも大事なこと?」
「……そう言われると、弱るな」
「あなたは弱ってばっかですね」
「弱い人間だからね」
 冗談めいて言うが、それは限りなく僕の本心に近い感情だった。
 僕と彼女は、月明かりを頼りにして、夜の小道を歩いていた。帰路だった。いつまで待ってもなかなか来ないバスに見切りをつけて「ねえ、たまには歩いて帰りませんか?」と提案したのは、彼女の方だ。
「だって、少しロマンチックじゃないですか」と彼女は主張する。いつものように、ちょっと気取った顔を作って、「月以外は誰も見てないんですよ、私たちのこと。この夜は今、私たち二人で独占できるんです」
「二人なら『独』占とは言わないんじゃ」
「もー、屁理屈ばっかり」彼女は笑って、「じゃあ、なんと言えば?」と僕に問いかける。
「たとえば、『二人じめ』とか」
「陳腐。でも気に入りました。……二人じめ、ね」
 くるりと彼女は回る。まるで踊るように、ステップを踏む。彼女の金色の髪の毛が月の光を反射して、より一層光り輝いて見えた。

 今日は彼女の誕生日だった。だから、僕は彼女とささやかなデートをした。といっても、内容はひどく陳腐だ。古い映画を見て、喫茶店で食事をして、帰るだけ。普通の男だったらもう少し気の利いたイベントを考えるのかも知れないが、僕にはそれが思いつけない。僕は気の利かない男だった。
 彼女には誕生日プレゼントとして、カシミヤのマフラーを贈った。僕にしてはやや背伸びした値段だったが、彼女が喜んでくれたのが幸いだった。彼女が溶けるようにふにゃりと破顔してお礼を言ってくれたときの顔と声を、僕は今でも克明に記憶している。きっと生涯、それを忘れないことだろう。
 しかしながら、僕は別のプレゼントも用意していた。これは背伸びどころか逆立ちしてようやく手が伸びた品だ。でも、どうしてもそれが渡せず、今の今まで至っていた。
 彼女から受け取ったものは、僕自身の生涯を全て計上したとしても到底両手で抱えきれないほどある。でも、僕から彼女に送ったものは、きっと、片手で数えられるほどしかないのだ。それがとてもつらかった。
「そんなこと気にしなくてもいいのに」
 と彼女は言う。今から一時間程度前、喫茶店で食事をしている時の話だ。彼女は安っぽいナポリタンを上品に食べている。「別に、あげるもらうだけが人間関係じゃないでしょう?」
「それは分かっている。分かっているつもりだけど」と僕は言った。僕は胃にもたれそうなほど脂っこいカツカレーを、一口ずつ慎重に食べる。「いつももらってばかりというのは、なんだか情けない」
「情けなくないですよ、全然」
「先週なんか三百円借りたし」
「……それは、ちょっと情けなかったですけど」
「いい年こいた大人が、年下の女の子に電車賃をたかるなんて」
「ちゃんと返してくれたじゃないですか」
「それは、そうだけど」
「なら十分でしょうに。何か不満でも?」
「不満というか」僕はもごもご言う。「僕はさ、もう少し、大人になりたいんだよ。君に頼られるようなさ」
 彼女は一瞬、きょとんとした。それから、「おや」と普段より若干高い声を漏らす。「なんか今日のあなたはちょっと可愛いですね。急にそんなことを言い出すだなんて」
「男に向かってカワイイというのは、時として罵倒になりうるということを君は理解していない」と僕は指摘する。実際、面と向かって年下の女の子にカワイイなんて言われると、照れくさいという感情よりも気恥ずかしさのほうが勝るのだ。特に、僕の場合はそうだった。
「可愛い人に可愛いって言って何が悪いんですか、もう」彼女はちょっぴり憤る。
「言うならせめて『かっこいい』にしてくれ。本心では微塵もそう思っていなくとも」
「なら、今日はかっこよく振る舞っていただけるのですか?」
「……それは明日からにする」
 僕はそっぽを向く。彼女は少し笑って、「ほら、そういうところがやっぱり可愛い」と言って、僕をからかった。

 とまあ、そんな情けない(彼女流の表現で言うなら『可愛い』になるのだが、この言葉を自分に向かって使用するのはかなり憚られる)のが僕だ。先の会話そのものが、その証左であろう。
 場面は夜の路上にまた戻る。彼女は道路の縁石の上を歩いていた。両手を広げて、弥次郎兵衛がそうするようにバランスをとっている。僕は、そんな彼女を眺めながら、月の道を歩いていた。
 それからは特筆するような会話もなく、彼女の家にたどり着いた。彼女の家は東京都心の高層マンションだ。僕は、たとえ天地がひっくり返ったとしてもここに住むことができないだろう。僕には六畳一間のワンルームマンションがお似合いだった。
「それじゃ、また今度」
「うん、また今度」
 僕は手を振る彼女に手を振り返して、彼女と別れた。エレベーターが動き出すのを見届けて、ため息をつく。高層マンションのエントランスに不相応な格好をした男がいつまでもいるのは明らかに不審だ。だから、僕は早々にエントランスから外に出た。
 そうして、僕はようやく、月夜を本当の意味で独占する。マンションの明かりに照らされて、星はあの夜道ほどは見えない。息を吐くと、白くなって藍色に溶けていった。
「……結局渡せなかったよなぁ」
 僕は右ポケットに残る小箱の感触を手で確かめる。僕には不釣り合いで、気取ったプレゼントだった。一念発起して買ったはずなのに、結局これだ。ある意味僕らしいと言えばそうである。
 もう帰ろう。寒いし。そう思って、僕は踵を返す。結局の所彼女にこれといった何かをしてやれたわけではないが、僕にとってはそれが精一杯だ。時間もそう遅くない。きっと彼女はこれから、彼女自身の大切な友人とともに誕生日会と洒落込むのだろう。僕は、そこに干渉する権利を有していない。わずかながらの後悔と自己憐憫を抱えて、このまま家に帰ろうと思った。
 その時だった。
「ほら。やっぱり何か用意してたんじゃないですか。別のものを」
 背後から声が聞こえた。それはひどく聞き覚えのある声で、彼女のそれによく似ていた。
 振り返る。
「……神楽?」
「はい、そうですよ。あなたの卯月神楽ですよ」
 もはや間違えようもない。マンションの明かりに逆光を浴びた彼女がそこに立っていて、白い息を吐いていた。
「さっき、エレベーターに乗ったんじゃ」と僕はしどろもどろ言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい、あれ嘘。二階に上がってすぐ階段で下りてきたんです」彼女は素直に白状した。「びっくりしましたか?」
「それはもう……」
 僕は驚いたのやら何やら、曖昧な台詞を吐く。すると彼女は「なら、私といたしましては大満足です。んふふ」と満足げに笑った。
 僕は思わずため息を吐いた。彼女には敵わないな、とつくづく思う。
「いつから気づいてたんだ」と僕は切り出した。「別の贈り物があることに」
「そりゃ、ねえ。他でもないあなたのことですから。私はあなたのことをよーく見てるってこと、忘れてもらっちゃ困ります」彼女はなぜか少し胸を張ってそう言った。「というか、明らかに挙動不審だったんですもの。ばればれです」
 そんなに挙動不審だったのだろうか、と自分でも思い返してみる。……たしかにそうだ、と思う。
「やっぱり君には隠し事できそうにないな」僕はもはや諦めた。
「どうして渡してくれなかったんですか?」彼女は僕を追及する。「私、あなたが精一杯考えて贈ってくれるものなら、なんだって喜ぶのに」
「渡せなかったんだ。どうしても」
「……それは、どうして?」
「怖かったんだ」
 僕はついにそう言った。彼女は何も言わず、じっと押し黙っている。僕は更に言葉を重ねる。
「僕一人が君を独占するようで、怖かった。もし君がそれを求めていなかったらどうしよう、と思って。君に失望されたらどうしよう、とも思って。僕は、君が知っての通り弱い人間だ。情けない人間だ。だから、どうしても渡せなくて。……いや、きっと理由はそれだけじゃない。僕は、君を求めるのが怖――」
 だけど、
「んっ」
 その先の言葉は、彼女自身によって塞がれた。
 僕は一瞬、頭が真っ白になる。身体の一番内側に近い外側に触れられた柔らかな感触に、衝動をかき乱される。寒空の下なのに、溶けた鉄を腹腔に流し込まれたかのような錯覚を受ける。空中に所在なさげに浮かばれた僕の腕が、硬直し、彼女に触れようとして、また硬直する。視界いっぱいに広がる彼女は、目を閉じていた。なので、僕もそれにならって、目を閉じる。
 身体の一部だけがじくじくと脈動する。僕はそっと、舌先で外側をなぞる。
 彼女の味。
 それ以上は、躊躇された。
 そして、やがて離される。僕はようやくやめていた呼吸を再開する。彼女は「んへへ」とさながらいたずらが成功した子供のように、満足気に笑った。
「……いきなり、何を」僕は喘ぎ喘ぎ言う。
「さっき舌入れようとしました? やらしー」
 だが、小悪魔のような彼女にからかわれて、何も言えなくなった。そんな僕を見て、彼女はまた、笑う。
「やっぱりあなたは可愛い人ですよ。だから、私はあなたが大好きなんです。あなたの情けないところも、あなたのかっこいいところも、ひっくるめてぜーんぶ」彼女は、その大きさを主張するように、両手を大きく広げた。それから、ふ、と短く息を吐く。それが白い筋となって、空に上っていく。「なのに、それを私に見せず隠すなんて、それこそ卑怯ってお話ですよ。私はあなたに私の全部を見せたのに」
「…………」
 僕はそれ以上何も言えなくなった。
 やはり、と思う。やはり、僕は彼女にはどうあったって敵わない。
 僕は、いつか衝動に耐えきれなくなって、彼女自身を求めてしまうのだろう。それは僕にとって、とても怖い。彼女自身を汚すような気がして。僕には彼女に侵入する権利がないように思えた。
 でも。
 僕は右ポケットの小箱を、そっと取り出して、彼女に渡す。「中身は、後で見てくれ」と懇願した。「答えは中身を見てからでいい」
 それだけ言い残して、僕は彼女の元を後にした。今ここで答えを聞くほどの勇気は出せない。
 でも、彼女が僕を一瞬でも求めてくれたのなら、僕はそれに応えるべきなのだろうと思ったのだ。それが先述の『でも』の続きだ。今の僕にとっては、それが精一杯だった。
「ねえ」
 去り際、彼女が僕の後ろ姿に向かって、声をかける。「さっきのその先は、してくれないんですか?」
「それは」
 僕は振り返る。彼女の表情は、いつになく真剣で、それがとても美しく感ぜられ、一瞬見惚れる。それから、僕は一呼吸だけ息を吸って、言う。
「それは、僕がもう少し、大人になってから」
 すると、彼女は微かに笑って「やっぱり可愛い人だ」と呟いた。


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