望郷の宇久島讃歌(26)

第3章 母・理絵の一代記

以下の手紙は母・理絵が平成二五(二〇一三)年二月に、弟の道下勲に宛てて書いたものです。往時、母は八四歳でした。母は、令和三年(二〇二一年)七月一日に永眠しました。この手紙は、勲叔父が同年八月十六日に送ってくれたものです。()内の補足は息子・隆が書き加えました。
この小説『宇久島奇譚』は母に捧げたいと思う。


 先日よりはお便り有難うございます。一日中嬉し涙が止まりませんでした。今日の幸せな老後も道下兄弟姉妹のお陰と感謝しております。お礼を申し上げるのは私の方です。

 上の曾孫の芽衣ちゃんが今小二です。三次のピアノコンクールで金賞、山口、広島、岡山、島根、鳥取の中国五県のコンクールが広島であり、最優秀賞となり全国大会に出場、昨年末の十二月二八日、東京で開催。隆と静子一族が応援に出かけてくれ東京でも表彰されました。

 去る一月二〇日広島で中国五県のコンクールで次女の莉子ちゃんが銀賞、二十六日は長女が金賞になりました。博(隆の弟)の長男の謙太は女の子三人です。上が四月に小三、次女が小一に入学します。公文教室に行って算数の分数や漢字の難しいのを書いていてです。

 私は一年生になる直時、徳山のオバからミチタの三文字を習いました。伯母は学校にも行かず文盲のはずでしたのにミチシタ(道下)とは言わずミチタ(発音通り)と言っていましたから私にそう教えたのでしょう。私がミチシタと書けるようになって、嬉しくてサキノイエ(先の家)のオバの家(田村ユキハルの家)に見せに行ったら蒲浦に嫁いでいるトメ姉がそれを見て「みんな来てみれよ。この子はミノナタと書いているよ」とみんなに笑われました。出口に嫁いだ峯みつ子さんも同級生でミネシコロと書いて学校で笑われたことがありました。出口のおばさんの長男の正義はお父さんの名前の徳次郎をトタジローと書いたとおばさんが大笑いしてました。今テレビで見る発展途上国の子供よりも浅ましかったのです。

 島で生まれた私は、幼少のころは、日本という国は下山部落の西・東のことかと思っていました。或る日、田村の家の傍の下り坂に立ったら、五歳上の白浜オキというお姉さんが来て、海の向こうに見える小値賀島、野崎島、六島を指さして「あの島も全部日本たい」と教えてくれ、日本は何と広いのだろうと驚きました。遊び友達としては大人になって道下家の下の浜辺家に嫁いだ門屋カンと畑山ソヨ子の二人でいつも下山部落の東の地域に遊びに行きました。母方の家が東地域にあったせいでしょう。

 小学校に行って初めてたくさんの人たちに出会いました。入学したてのころ校長先生と担任の先生が教室に来られて、担任の先生が校長先生を指して「この人を知っている人は?」とおっしゃると、長野マンヨシという男の子が手を挙げて「ジンジ(お爺さん)」と言いました。次に先生は、オルガンを指して「これは何というのでしょう」と言いました。するとまたマンヨシが手を挙げて「ブーブー」と言いました。男の子も女の子も同じで十四名、合計二十八名でした。あの頃の先生方も指導なさるのに大変だったろうと思います。

 しばらく経って慣れてきた頃、マンヨシが私に自分は病気するのがうれしいと言いました。「どうして」、と聞くと「オカユを食べさせてもらえるから」と言いまし。あの時のことを思い出すと、今でも涙の出る思いです。両親に死に別れて、私たちより二級上のお兄さんと二人、独身のおじさんの家で育ててもらっていたそうです。小学校を卒業したきりで島を出ましたが、その後の消息は知る由もありません。

 隆の娘の可奈子の結婚式に行った時、二次会に宇久島の蒲浦村出身の松山スミさんという方が経営する「西海」という居酒屋に、隆が連れて行ってくれました。スミさんの弟さんが同級生だったので聞いてみると「アオ―(宇久島弁で『アー』という意味)、いつの事かよ、死んだよ」と、少しも気取らない宇久島弁で答えが返ってきました。「なんかの病気で……、大酒ばかり食らって死んでしもうたとよ。同じ蒲浦部落の田淵民平、長尾民一さんも…、みんな死んでしもうたとよ」と、運命を受け入れたかのように淡々と話され、悲しげな素振りは微塵も感じられませんでした。

 夜眠られない時は、小学校の同級生のことを振り返りますが、男女とも生き残っているのは半分くらいになっています。私と同じ下山部落の西の地域では、男の子――田村松市さん、出口権治さん、木戸辰雄さん、原田長作さん――は皆亡くなり、女の子では出口ミツ子さんと私だけが生きています。東の地域ではリヨ子さんもカンさんも亡くなりました。

 病気で辛い時ははやくなくなった級友を羨ましく思うこともありますが、神様に対して罰当たりなことだと反省してみたりしております。

 母(ミツ)の弟で神戸にいた庄吉おじさんから入学祝にランドセルが送ってきました。兵隊さんの背嚢のような色でした。全校生徒でランドセルは私一人で男の子たちにはやし立てられ、みんなと同じビロードに刺繍したのが欲しくて親にせがみました。みんなのは黒のビロードに刺繍した縦型のカバン、私が買ってもらったのは赤い横型で、みんなと同じものが欲しくてたまりませんでした。筆箱は木寺のトミちゃんと一緒にもらった細長いものだったのですが、これも男の子たちからはやし立てられてしまいました。しばらくしてほかの子供たちと同じものを買ってもらい「一安心」ということになりました。

 子供の時は人と同じものでなければ納得せず、嫌なのですが、その心理については不思議に思います。子供のみならず、大人もそうですね。隆がフィンランドに出張して、お土産に当地産の襟巻を買い、三次に送ってくれました。その襟巻を首にかけてお店を覗いていると、生け花教室で一緒の奥様が買い物に来られて、「私にも福山さんと同じ襟巻をください」とお店の方に申されました。すると、当然ですがお店は「当店にはありません」と答えられ、私の襟巻の事情を話すと、皆が大笑いしたことがありました。大人になっても人の持ち物を欲しがる心情は変わらないものですね。

 私の勉強道具の中で一番使う石盤は作平兄ちゃん(母の従弟)譲りの使い古したもので、表面が擦り切れてツルツルでした。その古い石盤の上に石筆というもので書くのですが、これがいやでしたね。幸いに、しばらくしらノートに書くようになりました。

 ある時、平の町の知り合いのおじさんがゴム風船とゴムホーズキをお土産に持ってきてくれました。嬉しくて、天にも昇るような喜びでした。生まれて見たことも持ったこともない珍しい物だったので、筆箱に入れて学校に持っていきました。その頃、作平兄ちゃんは高等科の生徒で神浦の学校に通っていたのですが、ある日早く学校が退けたのでしょう。帰り道に小浜小学校に立ち寄り、窓の外から私の授業風景を覗いたそうです。

 自分の娘を初めて学校に入れた私の両親は、私の勉強の様子を知りたくて「リン子はどうしておったね」と聞いたそうです。すると作平兄ちゃんは「リン子は、風船を膨らませて、先生の言うことは聞いとらんかったよ」と答えたそうです。当然ですが、私は帰宅すると両親からこっぴどく叱られました。

 作平兄ちゃんは優しい人でした。私が、兄ちゃんに英語を教えて下さいというと、「うんいいよ、兄ちゃんの後に続いて言うてみれよ」といい、「エー、ビー、シービッタ、エンビンシーリャマガッチョル(方言で『エビのお尻は曲がっている』という意味)」と教えてくれました。私はこれを聞いて、直ぐに覚え、「私は、英語が話せるようになった」と得意になったものです。

 二週毎に孫の耕治が往診してくれ、今、自分の息子(母にとっては曾孫)の幸康君(当時六歳で小学校に入学直前)に掛け算の「九九」を教えていると言っていました。昔に比べればすごいスピードで勉強をするものです。

 私も三番目の孫の正剛(弁護士)が小さい頃、一緒に「九九」を勉強しました。「一の段」を勉強する時、二人で「一・九が九」まで言うと、正剛が「次は正剛に言わせて」というので「うんいいよ、言ってみて」というと、「ジュウジュンガジュン」と言って、二人で大笑いしたことがありました。八十五年間生きて、あんな事、こんな事、と思い出され、歳月がたてばみんな懐かしい良い思い出となりました。

 あなた(勲叔父)が生まれた時、私は高等小学校(明治維新から第二次世界大戦勃発前の時代に存在した、後期初等教育・前期中等教育機関の名称。略称は高等科や高小。現在の中学校(第一学年・第二学年)に相当する)の二年生でしたが、父は私を退学させると言い張り、母は何とか卒業させてやりたいと懇願しました。

 父は学校継続の条件として、十日に一度、学校のある神浦の町に米を買いに行く役目を果たすことでした。その日には、一時間だけ勉強して切り上げ、帰る時は約二キロメートルの道を走って帰れと言いました。中学二年の女の子の私は、父との約束通り、一斗(約十五キロ)の米を背負って神浦の町から下山部落の我が家まで一生懸命に走って帰りました。親の言うことは至上命令で今の北朝鮮の人民に対する政策のようなものでした。

 朝は、七十枚のオシメ(勇・勲の双子の兄弟のもの)を洗い、今の道下家(母の実家)の小舎(ママ)になっている処が空き地で、何本もの竿竹に掛け終わった頃、手は真っ赤に腫れ上がり、息を吹きかけ吹きかけ学校に行きました。オシメの洗濯などの仕事をこなすために、学校に行く時間を短縮しなければなりませんでした。だから、最短距離のコースを突っ走るのです。その最短コースは獣道のようで、両側からイゲヤブ(野イバラなどの藪)が伸びたものが、容赦なく顔、手足を引っ搔いて傷付けられますが、それをものともせず、夢中で走り通しました。今の時代には使われなくなった道だと思いますが、峯長作さんの家の東側の高い崖の上の細道を木戸辰夫さんの家に向かう下り坂を下りて、出口のオバサン方から西に向かってタニワ(田庭?)の細道を歩き、ある処からはやっと水が流れる程の極細の道を北に折れ、更に右に左に折れてようやく福浦村の竹林長光君(隆の同級生)の家の傍に出たところで県道(島の中で唯一広い道)に出ます。その県道も当時は未完成でした。

 ある時、子守をしていると隣の家のお父さんが「リン子」と声をかけてきました。返事をすると、「学校の先生が『優等賞をあげるから学校の卒業式においで』と言ってたよ」というではありませんか。何のことかよくわからなくて、戸惑いました。

 泊敦子という先生が高等科の担任でした。泊先生は、なぜか私をとても可愛がってくれました。先生は、宇久島の代官様のお姫様でした。今、神浦の幼稚園になっている処が昔の代官所があった場所だそうです。泊先生は明治政府が誕生して代官所が廃止される前にお姫様として生まれた方だったのです。

 私は、隣の家のお父さんの言葉を信じて、卒業式に出かけました。そうしたら、リハーサルもないままに、いきなり私が最優秀賞を受賞することになり、その副賞として神田賞(神浦高等小学校は満州で財を成した神田藤兵衛翁が私財を寄付して建てたもので、それを記念して「神田賞」が設けられた)まで頂きました。ちなみに、神田賞は花柄のセルロイド製の針箱でした。物の乏しい時代にもらったその針箱は私にとってはこの上ない宝物のようなものでした。

 磯谷善松さんという人が小浜郷(母の家がある区域)から選出された村会議員でした。卒業式に列席した磯谷さんは、羽織、袴のまま私の家までお祝いを述べに来てくれたと母から聞きました。磯谷議員は母に、「小浜郷の下山からリン子さんが最優秀賞・神田賞を頂き、私まで肩身の広い思いをした」と喜んでいたそうです。

 昭和十七年三月の卒業式以降は、戦況の悪化で、私の受賞を最後に神田賞は途切れたようです。私が小学四年生の時の七夕の日に支那事変が始まり、高等小学校一年の時に大東亜戦争が勃発、昭和二十年に戦争が終わりました。

 私たちの世代は戦争の中で生きて、終戦後は戦場から復員した男性と十八から十九歳で結婚し、その子供達も同級生が多いのです。

 その後、戦後という時代を生きて、こうして毎日幸せに暮らしているのはあなた方兄弟のお陰です。本当に有難うございます。
 この手紙は、私の最後の思いをしたためたものです。母は無学でようようひらがなと簡単な漢字しか書けませんでしたが、とても文才がある人だったと思います。私の小学校時代には綴り方という教科があり、作文を書かされました。先生が「昨日のこと」という題で作文しなさいと言われました。
  クラスメートたちは、「朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、学校に来ました」と書くのが一般的でした。それに比べ、私の場合は、例えば「ヨチヨチ歩きの妹の啓子がまだ言葉も言えないのに帯を持ってきて、『おんぶして』という仕草をして、可愛かった」などと事細かに書いたものですが、いつも先生から褒めてもらいました。

  農繁期には妹の早苗と啓子を一人をおんぶし、一人を手を引いて学校に行き、教室の後ろの方に立ったまま勉強しました。勉強の嫌いな友達は自分の弟妹ではなく他所の家の子供を連れてきて、それを口実に授業中も校庭で遊んでいました。

  私たちの頃は、小浜小学校は複式学級で二年間同じ教室(クラス)で勉強しました。五年生と六年生の時も複式学級で同じ担任の先生でした。その先生が神浦小学校(町の小学校。小浜小学校は神浦小学校の「分校」)の仲の良い先生と話したそうです。すると神浦小学校の先生は自分の教え子たちにこう言っていると打ち明けてくれたそうです。

  「今度、小浜小学校から頭の良い女の子が高等科に来るそうです。みんなその子に負けないように一生懸命勉強しなさい。その子は学校に子供をおんぶして来て勉強しているそうな」

 そんなわけで、神浦の高等科に行ったら、私は「子供をおんぶして学校に来る子」というレッテルが張られていました。

 高等科では同級生に岩本屋商店の築山喜和子さんという人いました。お兄さんは佐世保で産婦人科医、お姉さんも小学校の先生という、いわば島ではエリートの家柄でした。後に、喜和ちゃんも小浜小学校で先生をしました。この人が、私に格別よくしてくれました。

その後、彼女は長崎市に住むようになりました。ある製薬会社が企画した旅行(弟夫婦は薬局を経営し、製薬会社とのつながりが深い)に邦子さん(隆の弟・博の妻)と二人で参加し、長崎県のハウステンボスに行った時には、喜和ちゃんがわざわざ会いに来てくれました。「長い列の出来る長崎で一番おいしいカステラを買うてきたよ」と、お土産を頂きました。本当に懐かしく、嬉しかった。

その後何年か経って喜和ちゃんが病気で入院したと聞いたのでお見舞いの電話を入れました。すると電話に出た方が「実は今危篤状態なんです。みんなで交代しながら留守番に来ているのですよ。」というではありませんか。私の名前を聞いた留守番の方は驚くようなことを言いました。「福山さんはもしかしたら分校の小浜小学校時代、子供をおんぶして来ていた人じゃありませんか」と。私は驚きつつも「はいそうです」と答えました。きっと喜和ちゃんが周りの親しい人たちに私のエピソードを話していたのでしょう。喜和ちゃん危篤というショッキングなニュースとは少しちぐはぐな数十年も昔の私のエピソードを留守番の方から聞いて、私は喜和ちゃんの私に対する心根が嬉しく、心が揺さぶられる思いでした。

神浦の町の人たちにもよく可愛がってもらいました。京屋というお店に行くとおじいさんとおばあさんが出てきて「リン子さんところとは遠い親戚たい」と言って、戦時中は貴重品だった黒砂糖を下さったり、雨が降ると何人もの人が傘をもって校門で待っていてくださったり、今にして思えば何と有難いことだったろうと思います。

作平兄ちゃんの二つ年上に久作という人がいました。はっきり覚えていませんが、十七歳か十八歳で亡くなったのではないかと思います。神戸に中村和平おじ(母の父方の叔父)がいましたが、久作さんも神戸で亡くなり、骨で帰ってきたのでしょう。葬式の日だったと思いますが、私は幼くてよく判らなかったのですが、白い布にくるんだ枕のようなものを投げて徳山のオバが泣いている姿がなぜか私の記憶に強く焼き付いています。今思えば、あれが久作さんのお骨だったのではないかと思う次第です。

 子供の頃に見たオバの涙を見たのはあの時だけです。あれから作平兄ちゃんの戦死などがありましたけれども、あの時以来、オバの涙を見たことはありませんでしたね。

 私が何歳の時だったでしょうか。オバの家で正月の餅をついていました。その時私は、久作兄さんとジャレて遊んでいたようです。その時「やかましいから外に出て行け」と𠮟られてしまいました。私は、兄ちゃんの後について戸外に出て行きました。オバイモ(地名)の浜に行くと赤い大きな物がうなり声を上げていました。何匹ものべべん子(子牛)が興味深げに近づいては後ずさりし、後ずさりしてはまた近づいていました。兄ちゃんはその物体に近づいて、それを担ぎ上げて家に帰りました。その物体はとっても大きいタワライカ(ソデイカともいわれ、成体で胴長約100cm、体重は20kgほどにまで成長する)というものだったそうです。

 私とは血のつながりがないのに、オバも久作兄ちゃん達もほのぼのと懐かしい思い出となっているの不思議なことです。今になって振り返ると、徳山のオバの親子は徳の高い人たちだったのだと思います。(徳山のオバは、母の実家の道下家に子供が生まれないので貰い子として育てられた人。その後、母の父の徳平をはじめ三男一女に恵まれたが、徳山のオバは道下家の長女として育てられた)

 私は、生まれてすぐに、耳に腫物ができて治るのに百日かかったと母から聞いていました。親も児の私も大変だったろうと思います。医者にも罹らず、自然治癒を待つだけだったそうです。そんな折、平の町の付き合いのあるおばさんが訪ねて来たそうですが、その時私の耳からは驚くほどの膿が出ている状態だったそうです。それを見たおばさんは「わー大変だ。この子は脳が腐れて膿になって流れ出ているので大きくなってもまともな人間にはなれず、親も子も難儀するばかりだから、今のうちに殺した方がいい」と言ったそうです。八十年以上も前にはそんなことが出来た――行われていた――のでしょうか。母はそんなことには耳を貸さず大事に育ててくれました。本当にありがたいことです。おかげで、文字通り腫物も自然に治ったそうです。

 孫の謙太(長男)の嫁の亜紀ちゃんと耕治(次男)の嫁の幸ちゃんにこの話をしたら「その時おばあちゃんが殺されていたらおばあちゃんの子供も孫も曾孫もいなかったわね。それどころか、私たち家族もこうやってみんな一緒に暮らすということもなかったでしょうね」と話したことでした。

 八十五年を振り返ると全く夢のようです。私は、兄弟のお陰で今日の幸せな毎日を送ることが出来、有難いと思います。改めて感謝申し上げます。
 隆が本を書けるのは母ミツの遺伝子だと思います。母は、頭の良い人でした。貧しい生まれなので、尋常小学校三年までしか行っていませんが、村の人にたのまれて手紙を代書したほか、お金の計算などをしていました。俳句も嗜んでいました。若いこと大阪の弁護士の家に奉公に行って、弁護士から見込まれて結婚を申し込まれたそうですが、貧富の差を気にして、頑なに断り、島に戻ってきたそうです。

私も母の血を受け継いだのだと思います。神浦町の高等科の時代には、毎水曜日の朝礼の時間に全校生徒の前で、朝礼台に登って作文を読まされました。どの学年の時も担任の先生から「リン子さんは、大きくなったら物書きになりなさい」と言われました。私の歩いてきた人生の環境ではそれは叶いませんでした。私に代わって隆がそれを成し遂げてくれ、嬉しい限りです。先日、本を送ってもらい、読み終わりましたので、あなたに贈らせていただきます。お目通しいただければ幸甚でございます。

 あなたは中学を卒業したら船乗りになり、船員から独学で国家試験を合格して、船の幹部になり、何十年も空と海を見つめながら暮らしましたね。それがあなたにとって幸せであり、同時に健康の源だったと思います。くれぐれもご自愛専一にお過ごしください。

 長い長い手紙、私の一代記をお読みいただいてありがとうございます。

敬具
平成二十五年二月吉日

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