望郷の宇久島讃歌(5)

第1章 望郷の宇久島

●宇久島を離るる歌
私の人生にはいくつかの運命の岐路があった。最初の岐路は神浦中学校を卒業する時だった。私の進む道は四案あった。一つ目は、家業の百姓を継ぐ案。二つ目は、島外の集団就職すること。三つ目は学費が無料の陸上自衛隊の少年工科学校に進むこと。四つ目は長崎市にある三菱造船所の養成工に入り工員の教育を受けながら夜間高校に通う案。五つ目が高校に進学する案だった。高校進学も二案あり、一つは宇久島の宇久高校、もう一つは島外の高校――佐世保市にある佐世保北高校、平戸市にある猶興館高校または長崎市の長崎東高校――に入る案だった。

 私の進路については、私が物心ついたころから、母は繰り返し自分の考え方・信念を言い聞かせてくれた。私が、今も鮮明に覚えているのは、母が麦の「土入れ」の農作業の時に話してくれた光景だ。

島では、薩摩芋や大豆の収穫が終わり、秋も深まる頃、麦植えを始める。父は、夏から秋にかけて収穫が終わった芋畑や大豆畑の跡を、牛に引かせた鋤で耕した。障害を持った父は、少し右足を引きずりながら、「ホイ、ホイ、ホイ」と牛を励ましながら、鋤で土を捲って行くのだった。

 たばこ好きの父は、片時も自家製の刻みたばこを手放さないほどヘビースモーカーだったが、この時ばかりは、土にまみれながら長時間たばこを吸わず、鋤にしがみつくような格好で、牛に引きずられながら畑を耕していた。父は、村のあちこちに散らばった10カ所ほどの段々畑の数だけ、牛に引かれて汗と土まみれの苦行の日々を過ごすのだった。

 父の苦行が終わる頃、いよいよ一家総出の麦植えが始まった。家族それぞれに役割があった。父は、牛車で堆肥などを運んだ。母は、「広蒔鍬」と呼ばれる幅の広い鍬で、麦の種を蒔くための浅めの溝を掘った。祖母は、母が掘った溝に、〝野茨の古株〟のように異様に折れ曲がった指で、器用に程よい密度で麦の種を蒔いた。
 祖母はその昔、近くの田圃にセリを摘みに行った時、右手親指をマムシに噛まれたそうだ。当時は血清が手に入らず、たいした治療も出来なかったという。

「熱が出て来て、痛くて痛くて。その痛みに耐えられず、布団に包まって『ウン、ウン』唸ってじっと我慢しとったとばい」と祖母は語った。

「親指だけじゃなく、右手全体が腕の付け根まで丸太のように腫れて『ああ、もう死ぬとばいね』と観念しとったとよ」と続けた。

「不思議なもんたいね。若かったせいか自然に腫れが引いてきて良うなったとよ。ばってん、こんなにおかしか指になってしもうたとたい」と、右手を見せてくれたものだ。

 祖母の右手を良く見ると、異様に折れ曲がっているだけでなく、爪はほとんど残っておらず、残っている僅かの爪も著しく退化していた。

 祖父は、酒好きで、私が物心ついた頃には昼間から祖母が密造した芋焼酎を飲む事もあった。酔うと、祖母にからんで辛く当たることが多かった。

 神浦村役場の収入役まで勤めた祖父だったが、長男である私の父が障害を持っていたことや嫁いだ娘達の中に心を痛める話があったことなど、晩年酒に逃れたい理由があったに違いない。

 一方、祖母はこれに対し、常に忍従を貫いた。父が障害を持っていたことは、祖母にとっても大きな心の重荷であったに違いないが、祖父に対する忍従と同様、父に対しても不満めいた言葉は一切漏らさなかった。

 〝野茨の古株〟のように異様に折れ曲がった祖母の指は、祖母の風雪に耐えた人生そのものを象徴していたような気がしてならない。

 麦の種蒔きの際の私の役目は、祖母が蒔いた種の上から〝ハネ肥(ごえ)〟を散布することだった。〝ハネ肥〟とは、家で飼っている牛の糞尿と藁等を混ぜて作った堆肥のことである。私は、この〝ハネ肥〟を〝ホゲ〟と呼ばれる竹編みの手籠に入れ、素手でひと掴み取っては麦の種子の上に蒔いた。

〝ハネ肥〟の量が多過ぎると麦が伸びすぎて倒れるし、少な過ぎると育ちが悪い。私は〝ハネ肥〟の量を加減してバランスよく撒くのに苦労した。

〝ハネ肥〟は、牛の糞尿が主体で、十分に寝かせ醗酵しているとはいえ、感触や匂いは糞尿そのものに近かったが、私は一向に気にならなかった。

 これら糞尿と土と雨と日光から緑の麦の芽が育まれ、やがて黄金色の実りがもたらされることは実に不思議な気がしたものだ。この「不思議さ」を実感するためには、やはり「ハネ肥」を蒔いてみなければわからないだろう。

 私が〝ハネ肥〟を蒔き終わると、母はその横に次の溝を掘って、その土をそのまま既に麦を蒔き終えた溝の上に丁寧にかぶせてやった。

こうして蒔いた麦が発芽し、冬枯れの島が濃い緑の若草で覆われる。小・中学校が冬休みになる頃、私は〝土入れ〟を手伝った。〝土入れ〟とは、麦の畝と畝の間の土を掘り、その土を麦の株の上に被せる作業のことである。

〝土入れ〟してもらう事により、幼い麦の芽は根を張り分株して成長し、沢山の実を結ぶことができる。〝土入れ〟は腰が痛くなる重労働であった。「ザクッ」と畝と畝の間の土を鍬で掻き取って引上げると同時に、左斜め後ろの畝の上の麦にその土を被せる。

 母の〝土入れ〟作業は年季が入って、すべてひとつの流れになっていて無駄が無かった。私の場合は「ザクッ」と土を掻くまでは同じだが、この土を「ヨイショ」と引き上げていったん止め、やおらその土を麦の上に被せてやるという「二段モーション」で、母に比べて仕事も遅いし、疲労も早かった。

 私は、小学生高学年から中学生時代にかけてよく母と二人で畑に出て、〝土入れ〟を手伝った。母は〝土入れ〟の間、あれこれ私に話をした。それは、会話と言うよりも母の私に対する一方的な語りかけだったような気がする。母の話は、自慢話や人生訓などが主だった。これらの話は、繰り返し何度も聞かされたような気がする。

 母の勉強・進学についての拘りは、母自身の体験――トラウマ――から生まれたものだった。母は、繰り返しこう話してくれた。
 
「私は、知っての通り7人兄弟の長女だったから、弟や妹の面倒を見、家事の手伝いに明け暮れる毎日だったとよ。学校には、妹の早苗や啓子をおんぶして通ったとばい。

父――私の祖父の徳平――は義務教育の尋常小学校の6年間を終えた後に高等科(2年間)で勉強することさえも反対した。母―私の祖母のミツ――は何とか高等科に通わせてやりたいと父に懇願してくれ、勉強を続けることができた。

私の向学心は学年が進むにつれますます強くなったとよ。ばってん、父は、私が家で勉強することば許してくれなかった。家で勉強すると、父にこっぴどく叱られたもんたい。父は〈百姓の子は勉強せんでもよか。女子は家の手伝いだけすればよか〉と言われた。

それでも勉強が好きで好きでたまらず、わずかの暇を見つけては父に隠れて勉強しとった。運悪く父に見つかると、二度と勉強できないようにと、机を天井裏に投げ上げられてしもうたとよ。父はさらには、〈今度勉強しているところば見つけたら、指をへし折るからな!〉とまで言われたばい。私はとても悔しく悲しかったとよ。

小浜尋常小学校を終えると、母のお陰で、神浦小学校の高等科に進んだとよ。高等科では、小浜尋常小学校だけではなく、子供の数が倍以上もいる神浦尋常小学校の子供たちと一緒になった。私が6年生の時の担任の泊敦子先生は、神浦尋常小学校の6年生の担任月川京子先生と仲が良く、私が勉強がよくできることを自慢していたそうたい。

それを聞いた月川先生は、神浦尋常小学校の子供たちに、〈今度、小浜尋常小学校から頭の良い女の子が神浦小学校の高等科に来るそうです。みんなその子に負けないように一生懸命勉強しなさい。その子は学校に子供をおんぶして来て勉強しているそうな〉と話したそうな。そんなわけで、高等科に行ったら、私のことが〈子供をおんぶして学校に来る子〉と、評判になったとよ。

私は高等科でも、家事手伝いや弟妹の世話に追われる毎日で、家で勉強をする余裕などなかった。それでも、学校に行けることだけでも有難かった。授業中は、一所懸命先生の授業を集中して聞いたとばい。その結果、2年間の高等科を終える時には、最優秀で、総代に選ばれ『神田賞』ばもろうたとばい。そん時の副賞があの花柄模様の入ったセルロイド製の針箱たい。

 その昔、宇久島を出て満州に渡り、財を成した神田藤兵衛さんという篤志家が私財を擲って今の神浦中学ば建ててくれたわけたい。その神田藤兵衛さんが遺してくれたとが『神田賞』たい」
 
母は、花柄模様の入ったセルロイド製の針針箱を大切にしていた。この針箱こそが、母が私達子供に対する唯一最大の自慢の種であった。母は、中学を終えた後は、福岡にあった日本ゴム社の事務員に採用され働いていたそうだが、大東亜戦争の戦局が悪化して、博多周辺が米軍機により爆撃され、会社経営が出来なくなったことと末の弟(7番目)が生まれる事になったため、2年ほどで勤めを辞め、終戦直前の昭和19年、島に帰ってきたそうだ。
 母は、麦の〝土入れ〟作業をしながら、なおも息子の私に対して、話を続けた。
 
「宇久島では、農家の長男は家業を継いで島に残るのが不文律だった。でも、この島にいてもお前の将来は拓けない。私は百姓の合間に、日銭を稼ぐ土方をしようと何をしようと、石に噛り付いてもお前たち子どもを島の外の高校に進学させるけんね。

長男に生まれたばってん、百姓を継ぐのが嫌で宇久島から夜逃げした人もおるとよ。それが道下の虎蔵爺さん――あなたが小学校に上がる前に亡くなった徳平お祖父さんのお兄さんたい。

虎蔵爺さんは、百姓を継ぐのが嫌で、ある夜に伝馬船を漕いで平戸に渡り、宇久島を出奔したとばい。虎蔵爺さんは、裸一貫で潜水夫になったとよ。
当時の潜水夫は危険な仕事だったとよ。水圧の高い深い海底で仕事をして、水面に浮かび上がる体の中の気体が膨張して潜水病(減圧症)になるとたい。皮膚や関節が痛んだり、意識がおかしくなったり、体が麻痺したりする病気たい。

虎蔵爺さんは、命懸けの仕事をして、日本でもトップクラスの潜水夫になったとばい。水深の深い難所での作業で、高給を稼いで大金持ちになったとばい。政治家に献金したり、若い画家のスポンサーまでしたそうたい。宇久島で、百姓を継いだらあんな生活はできなかった。

タカちゃんは、宇久島から夜逃げしなくても、正々堂々佐世保や長崎の高校に進学し、さらに大学まで行けばいいんだから。虎蔵爺さんに比べれば幸せたい。苦労は多いかも知れんばってん、どうせ生まれたからには、大きな夢に挑戦するのが良かと、私は思うとるとよ」
 
このように私は、母の麦畑での「お説教」が頭に刷り込まれた結果、母の言葉に従い、神浦中学校を卒業すると佐世保の高校――県立佐世保北高等学校――に進学することを決意した。

当時、佐世保北高は、600人の定員で、その1割・60人を校区(佐世保市)外から採用した。校区外からの入学を〝越境入学〟と呼んだ。私は運よくこの〝越境入学枠〟で、合格を果たすことができた。

 愈々、宇久島を出て佐世保に行く日が近づいた。島では、春を迎えると、麦は勢いを増して伸び、島を渡る風に緑色の波を揺らめかせた。このころになると、麦畑の中にオオイヌフグリ、カラスノエンドウ、ハコベなどの雑草も麦に負けじと、頭をもたげた。島の農民達は大人も子供も総がかりで麦畑の草取りに励んだ。冬の間、枯れた稲藁ばかり食べさせられていた牛たちにとって、この麦畑で採れたみずみずしい青草は最高の御馳走だった。

私は、海を越えて佐世保に渡るその日の朝まで、村の人達と一緒に早朝から麦畑の草取りをしたものだ。お昼頃の定期客船に乗るために一足先に家に戻り、母と一緒に家を出て神浦(こうのうら)の港に向かった。先ほどまで草取りしていた麦畑の近くを通りかかると、いまだ草取りに励んでいる村人達が、草取りを休止して、麦の中から立ち上がって、一斉に手を振って見送ってくれた。その光景が、今も鮮明に懐かしく感動的に思い出される。

 島で育った子供の頃の思い出――宇久島の思い出――は、この麦畑の中からの旅立ちの日で終わる。伸び行く麦さながらに、私も当時は不安と期待を胸に、島を出て明日に向かって旅立ったのであった。

私は、ドイツ民謡の「故郷を離るる歌」を聞くたびに、決まってこの宇久島から旅立つ時の麦畑の別れの情景が思い出される。私は、即興で次のように「宇久島を離るる歌」という替え歌を作った。これが当時の私の淋しさと不安とが入り混じった胸懐であった。
 
春風に 波打つ 畑の麦よ
今日は 島をながむる 最終(おわり)の日なり
おもえば涙 膝をひたす さらば宇久島
  さらばふるさと さらばふるさと 宇久島さらば
  さらばふるさと さらばふるさと 宇久島さらば

金茸(キンタケ)採りし 松の山 牛追いし野原
小鮒釣りし 福浦川 柳の土手よ
別るる我を 憐(あわれ)と見よ さらば宇久島
  さらばふるさと さらばふるさと 宇久島さらば
  さらばふるさと さらばふるさと 宇久島さらば

デッキに立ちて さようならと 別(わかれ)を告げん
遠ざかる 宇久島 静(しずか)に去らん
手を振る母の 姿も消ゆる さらば宇久島
  さらばふるさと さらばふるさと 宇久島さらば
  さらばふるさと さらばふるさと 宇久島さらば







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