望郷の宇久島讃歌(3)
第1章 望郷の宇久島
●鐘の鳴る丘
私は、母から自分の運命に関わる重大で、ショッキングな話を聞いた。
「お父さんとの婚約は解消する寸前まで行ったとよ。道下(母の旧姓)の母は、お父さんについての、狭い島の中での風評――『八平さんは、大東亜戦争でジャワ島に出征して“南洋ボケ”になった』――が心配だったとたい。母は、私を不幸にすまいと、意を決して、婚約の取り消しに福山の家に行ったそうな。そして福山の爺さんと婆さん、それにお父さん(八平)を前に『今度の婚約は無かったことにしてください』と、婚約破棄ば申し入れたそうたい」
母は、私が還暦を過ぎた頃、こう打ち明けた。私には衝撃的な話だった。もしも、破談になっていれば、私と弟妹は、この世に生まれてこなかったはずだ。
「それで、どうなったの」
「福山の爺さんと婆さんは、『仕方のなか』と受け入れたそうたい。そしたら、お父さんが泣いたそうな。『頼むから、取り消さんでくれ』と。道下の母さんにすれば、『南洋ボケ』に娘を嫁にやるのは可愛そうだという思いが強かった。それでも、さめざめと泣くお父さんが気の毒になり、婚約破棄を取り下げたそうな」
「それで、結婚したんだね。そして俺達3人の子供が生まれたんだね」
「そうたい。死んだお父さんを恨む気は全然なかばってん、それが苦労の始まりだったとよ。」
父の八平は、徴兵検査で「丙種」(身体上極めて欠陥の多い者、現役には不適だが国民兵役には適する)だったのだろう。だから、兵隊さんにはなれず、軍属(軍人以外で軍隊に所属する者で後方支援業務などにあたる)となった。大東亜戦争で徴用され、ジャワ島のスラバヤというところにいっていたそうだ。私は、父の生前には、健常者ではないことを「残念に思う気持ち」が強かったが、亡くなった後は「可哀そうだ」という気持ちが、歳とともに強くなった。
父のスラバヤ時代の写真を見ると、帽子には錨の徽章が付いていることから、帝国海軍の後方支援業務に就いていたものと思われる。終戦とともに早々に宇久島に復員したそうだ。早速、嫁をもらうことにした。相手は、隣村・下山の道下家の長女りん子だった。親同士が勝手に決めたものだ。道下みつ――母の母――は父八平の“南洋ボケ”のことと心配し、直前に婚約を破棄しようとしたが、父の八平の「涙」の哀願で、約束どおり結婚することとなったそうだ。
母方からの婚約破棄の申し出が成立せず、父母が結婚したからこそ、私が生まれたのだ。終戦直後の昭和22年8月9日――長崎に原爆が投下された日から丁度2年目――に私は長男として生まれた。宇久島は長崎市の北北西方向50キロメートルほどにあり、天候や風向きによっては母を含む島民が「黒い雨」により被爆した可能性がある。
「黒い雨 」とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時に巻き上げられた泥やほこり、煤や放射性物質などを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。
広島では、主に北西部を中心に大雨――「黒い雨」――となって激しく降り注いだという。この「黒い雨」は強い放射能を持つため、この雨に直接打たれた者は、二次的な被曝が原因で、頭髪の脱毛や、歯ぐきからの大量の出血、血便、急性白血病による大量の吐血などの急性放射線障害が起こった。幸いに、宇久島は「黒い雨」の被害はなく、母は大丈夫だった。
戦争直後の、悲しいどん底の世相の中で、新たな命――私――が生まれたのだ。私の誕生は我が家に明るさをもたらしたことだろう。
私が生まれた頃の我が家は大家族だった。祖父母、父母のほかに祖祖母(祖父の母)、祖父の妹とその息子、父の妹(私にとっては叔母)が二人――茂子叔母と久子叔母――の9人、私を入れてちょうど10人家族だった。私が生まれて家族が一人増えたが、大戦以前に4人減っていた。父の兄弟・姉妹のうち、二人の叔母――貞子とトキワ――は嫁に行き、一人の叔父――保彦――は漁船に乗って働いていた。もう一人、和子叔母がいたそうだが、終戦間際に風邪から肺炎となり、それが悪化して無くなったそうだ。祖母は和子叔母のことを思い出すたびにこういったものだ。
「和子は、佐世保の病院で看護婦ばしとったとたい。冬の最中、米軍の空襲が酷くなって、真夜中に寒い防空壕に避難を繰り返すうちに、風邪ばひいたとよ。戦争の最中で食料も足らんかったし、薬も満足に無かった。そいけん、風邪をこじらせて、肺炎になったとたい。私は、宇久島から、空襲を避けての夜行便の汽船で、佐世保に看病に行ったとたい。そしたら、毎日空襲たい。和子は看護婦で病院に勤めとったけど、十分な治療も受けられんかった。真冬の防空壕の中で肺炎の高熱にうなされながら過ごしたとたい。そして、和子はついに私の腕の中で無くなったとよ。かわいそうに」
「とんがり帽子」(菊田一夫作詞・古関裕而作曲)という歌が、私がこの世に生を享けて最初に聞き覚え、歌った歌だったそうだ。この歌は、私が生まる直前の昭和22年(1947年)7月5日から昭和25年(1950年)12月29日までNHKラジオで放送されたラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の主題歌だ。
ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」は、戦争から復員してきた青年、加賀美修平が、戦災孤児たちのために、信州に彼らの住める場所を作ってあげようと努め、やがて信州の山里で戦災孤児たちとの共同生活を始め、子供たちが明るく強く生きていくさまを描く。日本全体が苦しかった時代、大人子供を問わず多くの人の共感を呼び、大ヒットとなった。
このドラマの誕生と放送開始のきっかけは、昭和22年(1947年)4月のフラナガン神父の来日だった。神父は、1912年ネブラスカ州のオマハに「少年の町」という少年たちの更生自立支援施設を作ったことで知られた社会事業家だった。神父は、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥から助言を求められ、1947年4月から6月の間来日し、戦災孤児などの救済に尽力した。神父が日本を去った後、連合国総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)はNHKに対し、同神父の精神を踏まえた戦災孤児救済のためのキャンペーンドラマを制作するように指示した。こうして生まれたのが、「鐘の鳴る丘」だった。
主題歌は、赤い屋根の時計台のある戦災孤児のホームの情景と、健気に生きる子供達の様子を歌っている。一番目の歌詞はこうだ。
緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子ぼうしの 時計台
鐘かねが鳴ります キンコンカン メイメイ小山羊も 鳴いてます
風がそよそよ 丘の家 黄色いお窓は おいらの家よ
一歳になるかならぬかの私が、最初に「言葉」を口にして歌ったのは、「鐘の鳴る丘」の歌詞の「キンコンカン」という部分だったそうだ。父が健常者ではなかったために、母は我が家の農作業の担い手だった。朝から晩まで、それどころか寝る間も削るほどの、働き尽くめだったそうだ。私が母とまみえるのは、乳をもらうときだけだったそうだ。私の子守役は母の妹の啓子叔母や父の妹の久子叔母――当時小学校の二年生か三年生――だったそうだ。
二人の叔母は私を “ネンネコ”で背中におんぶして、当時流行していた「鐘の鳴る丘」を歌っていたそうだ。そのうちに、一歳になるかならない私が、突然、叔母達の背中で「鐘の鳴る丘」の歌の「キンコンカン」という部分だけ歌うようになったそうだ。叔母たちは、自分の背中に背負っている私が、突然歌い出したのでびっくりしたという。
叔母達が、「緑の丘の 赤い屋根 とんがり帽子ぼうしの 時計台 鐘かねが鳴ります」と歌うと、赤ん坊の私が「待ってました!」とばかりに「キンコンカン」と背中の〝舞台〟で声を張り上げたそうだ。これを機に、家中の皆で鐘の鳴る丘を歌い、私の〝独唱〟を促すようになったそうだ。幼児の私の歌声は、ウィーン少年合唱団のように、我が家を明るくしたに違いない。
私は、大人になって後、母からこの話を聞くたびに、今の自分とは違う「もう一人の幼子の自分」がいたような気がして、深い感慨を覚える。なんと、この幼子は健気にも「キンコンカン」という初めての言葉・歌で、自己主張したのだ。「キンコンカン」という幼子の言葉・歌は、幼いながらも、明日に向かって懸命に生きようとする幼子の志を伝えているように思われてならない。今、大人の私は、その昔、幼子だった自分自身から、励まされているような気になる。
英国の詩人ワーズワースに『虹』と題する詩に、「子どもは大人の父である(The Child is father of the Man)」という一節がある。76歳になる私には、ワーズワースがこの言葉に込めた寓意がよく理解できるような気がする。