望郷の宇久島讃歌(2)
第1章 望郷の宇久島
●金茸
玄海灘に浮かぶ五島列島最北端の小島、私の故郷、宇久島では、茸(きのこ)のことを「ナバ」と呼んだ。更には、「ナバ」と言えば、島では普通「金茸」という茸のことを指すのだった。
「金茸」と言う名前は、多分、宇久島で使われる俗称だったものと思うが文字通りほのかな金色の清潔感のある茸で、形は松茸に似ているが、やや小振りである。
「金茸」は宇久島の黒松林の中に育った。赤松林に生える松茸のような香りには乏しいが、シコシコした歯触りは何とも美味であった。
勿論、松茸は宇久島では育たなかったので、私が少年の頃はその香りを知る由もなかった。
後に、図鑑等で調べてみると「金茸」は実は「しもこし」というキシメジ科のきのこのようだ。「しもこし」という呼称は昔から北陸地方でつかわれていたという。海の幸の越前ガニ漁が始まる晩秋から、 初冬の霜の降りる頃まで発生することから「霜越し」と名付けられたのだという。
私の少年時代(昭和30年前後)、島には黒松林が広がっていた他、神社の境内や海岸近く等には100年を越える巨松がそこかしこにあり、見事に垂れ伸びた枝が、島を渡る風に舞っていた。その昔、火山で生じた宇久島は、ほとんど禿げ山の状態であったので、主として燃料用に島の風土に適した黒松を植林したのだと聞いたことがある。
島に住む親戚の便りによれば、残念なことに松食い虫の被害でこれらの松はほとんど枯れ果て、今では次の世代の小松が成長しつつあるとのこと。「我は海の子」と言う童謡にも出てくる海辺の松原の情景は私の心の中の原風景でもあったが、残念ながら、今では宇久島からは消えてしまったことになる。
「金茸」は秋が深まる頃、松林の落ち葉の中に生え始め、限界灘を越えて小雪混じりの季節風が吹き荒れる1月から2月にかけて旬を迎える。「金茸」は生まれたての頃は黄色い小粒状であるが、成長するにつれ傘の形をした茸本来の形になる。群生しており、一つ見つけると、そのあたりに何個もある。
私が、高校入学のため、島を離れた昭和38年頃までは、松の落ち葉は燃料として貴重だった。これを竈にくべて炊事もし、風呂も沸かした。松の落ち葉は、油分に富みよく燃えるので、少量でも比較的強火力が得られる上、火加減も簡単に出来た。島民は、農・漁閑期を見計らって、一家総出で、それぞれの松林に落ち葉を拾い集めに行くが、これを島では「山取り」と呼んだ。「山取り」の作業では、「木葉掻き」と呼ばれる木製の熊手のようなもので、地面いっぱいに堆っている松の落ち葉や枯れ枝などをかき集め、これを丸めて米俵のような形に固めて荒縄で束ねる。
私の家では、「山取り」は、病弱の父に代わって母がやるのが常だった。半日ほども費やして、母は器用にこの松葉俵を何個もこしらえ、これを「カリノ」と呼ばれる背負子の一種に一度に4個から5個(30キロ程度)も乗せて2キロ前後の山道を家まで運んだものだ。姉さんかぶりにモンペ姿の母が「カリノ」で山のように松葉俵を背負い鼻の頭にいっぱい粒々の汗を吹き出しながら、山間のでこぼこ道を歩く姿が今も瞼に焼き付いている。
母は、不思議に鼻の膨らみに粒々の汗をかく体質だった。今になって、このときの様子を思い出してみると、母は松葉俵の荷の重さだけでなく、生きることの様々な重さにじっと耐えながら、足下の石くれを睨みつつ黙々と歩を運んでいたような気がする。
私が、「金茸」を初めて採ったときの記憶、それは小学校に上がる前のことで、半ば夢のよう朧気なものだ。とある冬の日、母と二人きりで松林に「山取り」に行った時のことだった。松林の中で、母は懸命に落ち葉を「木葉掻き」で集めていた。人気のない林の中で、「ガサッ、ガーッ」という「木葉掻き」の乾いた音と、林を渡る木枯らしの音が妙にふさわしいハーモニーだった。幼い私は傍らで松ボックリをビー玉代わりにして遊んでいた。
「たかちゃん。早よ来てみれ。ナバのあるよ。」と母の弾んだ声。私が、母の呼ぶ方に駈けていって見ると、「木葉掻き」で松の落ち葉を掻いた後に、淡い黄色の茸がいっぱいあるではないか。小さい初々しいもの、もう相当笠が開いて表面がやや茶色っぽく乾燥した大きなもの、と様々だった。
母は、その場に一緒にしゃがみ込んで、一個、また一個と私が喜々として摘み取るのを見守ってくれた。島では、春になると地鶏が雛孵する。母鳥は10羽前後の雛を引き連れ、草むらを足で引っ掻いて、ミミズや昆虫を掘り出し、自分では食べずに「クッ、クッ」と鳴いて子供達を呼び集め、餌を与える。
後年大人になって、母が私に金茸を採らせてくれた時の思い出を振り返る時、何故か決まって、地鶏の母親が雛たちに餌をついばませる情景が連想される。それは、ひな鳥の産毛の色のせいかもしれない。ひな鳥のふわふわした黄色い産毛は「金茸」の色に似ていた。縫いぐるみのようなよちよち歩きのひな鳥と母鳥は、なんだか私自身と母の関係に似ていると思えるのだ。母鳥は決して自分は餌を食べず、ひな鳥に与える。
私の母も、食事の時、自分の食べ物を私に分けてくれたものだ。秋になると、島にもサンマが流行った。きっと、隣町の平(たいら)という集落の漁師が獲ってきたのだろう。母は、床下の貯蔵庫からサツマイモを出して、闇かご――戦後、闇市に行くときに使ったかご――に入れて、4キロもの道を歩いて平に行き、サンマと物々交換して持ち帰ったものだ。
消し炭を七輪で燃やして、サンマを焼くともうもうと煙が立つ。煙で燻されたサンマは黒く仕上がったが、味は抜群だった。家族一人に一匹のサンマ。私は、サンマをおかずに半麦飯をおかわりした。
佐藤春夫の「秋刀魚の歌」に、次のような一節がある。
〈あはれ、人に捨てられんとする人妻と妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。〉
春夫が歌っているように、さんまの最も美味いところは腸の部分なのだ。たっぷりと詰まった白みがかった油身や少し赤みがかった腸(わた)を無数の肋骨ともども口に入れれば、脂身のほのかな甘みと腸(わた)の苦みが入り混じって、何とも言えない最高の味だ。
私は、子供のくせに、サンマの腸(わた)が大好きだった。母はそのことを知っていて、サンマが夕餉に上る時は、必ず腸(わた)の部分を箸で切り取ってそっと私の皿に分けてくれたものだ。
父が早くに亡くなった後、母は広島県の三次市に住み着いた弟(二男)に引き取られ島を離れてしまった。2021年の夏、母は92歳でこの世を去った。
母との思い出は、数えきれないほどあるが、私が幼かったあの寒い冬の日、松林の中で、母と二人っきりで、初めて金茸を採った情景が何故か最も大切なものとしてほのかに胸の中によみがえる。