望郷の宇久島讃歌(17)

第1章 望郷の宇久島

●瀬戸の花嫁

宇久島には「町」と呼べるところは、平(たいら)と神浦(こうのうら)の二箇所の港町だけであった。九州本土の町に比べれば、取るに足らないごく小さな町に過ぎないが、そこには私が住んでいた福浦集落にはない映画館、床屋、雑貨店、洋品店、交番、船着場などが一応揃っていた。島の外に出たことがない私たち宇久字島の子供にとって平や神浦は、「都会」であった。

平や神浦の「町」のイメージしか持たない私が、小学校6年の時に、修学旅行で長崎市に汽船で渡った。その時の驚きは今も鮮明に覚えている。長崎市は宇久島最大の「町」である平に比べ、数百倍も大きな「坂の町」・「港と舟の町」だった。坂の下の方には長崎港があった。グラバー邸から見た長崎港は、周囲を山々に囲まれた巨大な川のように延々と内陸に入り込んだ天然の良港だった。港内には大衆様々な船が停泊したりゆっくり動いたりしていた。また、長崎造船所では、船が建造されていた。グラバー邸から、長崎港を見下ろしながら、バスガイドさんが斎藤茂吉の歌をこう紹介してくれた。

「皆さん、グラバー邸から見る長崎港は如何ですか。長崎港は、江戸幕府の鎖国時代には、我が国唯一の海外に開かれた窓口として、中国や西欧文化輸入の門戸となり、日本近代文明発展の原動力の役割を果たしてきました。斎藤茂吉は長崎医学専門学校の教授として長崎市に赴任し、長崎市の特異な情景を歌に託して詠みました。

『朝あけて船より鳴れる太笛(ふとぶえ)のこだまはながし竝(な)みよろふ山』

 皆様ご覧の通り、長崎港は山々が並んで取り囲んでいますよね。そして、多くの船が出入りしています。船が汽笛を鳴らせば、周囲の山々にこだまして、しばらくは鳴りやまないですね。茂吉は見事に長崎市・長崎港の地形上の成り立ちを言い表していますね」

当時小学6年生の私の心にも茂吉の歌は新鮮にしかも自然に受け止められた。これは、孤島である宇久島から来たからこそ、長崎市の地形の特色がすぐに理解できたのではないだろうか。

我が家に電灯が点ったのは小学校5年の時だった。平や神浦には小さな発電所があり、我が家に電灯が点る以前から電気が供給され、電灯が灯り、ラジオも聞けたそうだ。それゆえ、平と神浦の住人は、私が生まれて初めて口ずさんだNHKの「鐘の鳴る丘」の歌も聴くことができたのだ。平と神浦以外の多くの小村落の住民は貧乏で電気代が払えないという理由からか、電気の供給が無かった。電気の来ない福山家に「鐘の鳴る丘」などの流行の歌を伝えてくれたのは茂子叔母だった。当時、茂子叔母は神浦小学校の先生だった。叔母は、戦後の社会・文化の変化を、歌を通じて我が家に運んできてくれた。

私が、4歳か5歳の頃のことだった。茂子叔母は夕方学校から帰ると、私と一緒に縁側に座り、当時流行していたいろいろな歌を教えて、一緒に歌ったものだ。戦後歌謡・童謡の「ごろすけホーホー」、「りんごのひとりごと」、「みかんの花咲く丘」、「里の秋」、「とんぼのめがね」などを繰り返し歌った。

「ごろすけホーホー」の歌詞は、「ごろすけ ごろすけ ほーほーほー、月夜の森でごろすけ ほー、歌って夜明かせ ごろすけ ほー、ほ ほ ほっ ほっ ほー」だった。我が家の裏手には大きな林があり、そこにはふくろうが住み着いていた。夕方になると「ほーほー」と鳴きはじめる。車の騒音も無い静寂の中で、ふくろうの歌声は子供心にも物悲しくも淋しく聞こえた。茂子叔母と私が「ごろすけホーホー」を歌い出すと、まるでそれに加わるように林の方からごろすけが人間の声に和して鳴いたものだ。

茂子叔母が私と遊んでくれるのは、母が農作業や家事で忙しく、私の相手をしている暇がなかったからだ。父が病弱だった私の家では、農作業や家事の仕事の大部分は母がこなした。祖父と祖母はなぜか自分たちの子供(4人の娘)には、一切農作業はさせなかった。茂子叔母の上に二人の姉(既に嫁いでいた)がいたが、里帰りしても農作業は一切させなかった。母のみがまるで〝農奴〟のようにこき使われた。子供心にも、私は、母が働きづくめの日々を余儀なくされていることをおぼろげながら理解しており、「母がかわいそうだ」という思いを抱いていた。

茂子叔母は学校からの帰りに、お土産としてリンゴを買ってきてくれた。リンゴは島では取れない貴重品だった。リンゴを食べながら、「りんごのひとりごと」を歌った。この歌の歌詞は3番まであるが、どれも最後が「りんご りんご りんご りんご 可愛い ひとりごと」で締めくくる。幼い私には、果物の「りんご」と母の名前の「リン子」の響きが重なって聞こえた。だから、私は「りんごのひとりごと」の「りんご 可愛い ひとりごと」という歌詞の部分を歌う時は、哀調を帯びたメロディーと重なって、「リン子が可愛そう、母が可愛そうだ」という思いが募り、ひとりでに涙が出てきたものだ。

「みかんの花咲く丘」の歌詞には「黒い煙を吐きながらお船はどこへ行くのでしょう」という一節がある。島に生まれた私は、子供の頃から海に囲まれた環境に育った。「海の向こうには何があるのだろう?」、という思いは物心付いた頃から心の底にあった。宇久島と“外界”を繋ぐのは船だ。佐世保や博多へと向かう汽船や大型漁船が島の近くを通るのを見るたびに歌にある通り「黒い煙を吐きながらお船はどこへ行くのでしょう」と思うのだった。さらに、船の行き先として、日本の都市だけでなく外国までも頭の中に浮かべ「いずれ、大人になったらボクも行くんだなあ。どんな国や都市で、どんな人たちが如何なる暮らしをしているのだろう。今から楽しみだ。」と妄想に耽るのだった。
 
茂子叔の思い出は童謡を歌ったことだけではない。神浦のマチのミセヤ――島の子供達は、菓子屋も本屋も雑貨屋も全部ミセヤと呼んでいた――から生菓子、破れ饅頭、かす巻などの菓子やリンゴ、ミカン、富有柿などの果物、さらには絵本、ノート、クレヨンなどの文具までも買ってきてくれた。茂子叔母は、島では最もランクが高く尊敬される学校の先生という職業に就いて月給をもらえる恵まれた身分だった。だから、惜しまずに私のためにお金を使ってくれたのだ。
 
生菓子は煎餅などのように固く、乾いたものではなく、柔らかく甘く、子供の私にはなんともいえないほど美味しい夢のような菓子だった。その生菓子は、今思えば餡子の入った和菓子のようでもあったし、ケーキのような洋菓子のようでもあった。子供の私には、和・洋の区別など無く、柔らかくて甘いお菓子はみんな生菓子と呼んでいた。
 
破れ饅頭の美味しさは格別だった。破れ饅頭は、白い薄皮の下に小豆の粒あんが一杯詰まった饅頭だった。皮が極めて薄く、甘い餡が主体の饅頭だ。餡を包む白い皮は、所々に破れ目があるので、中身の餡が見えるように仕上げてあり、白と濃い小豆色のまだら模様が特徴だった。皮は殆ど無いので、一口齧るといきなり甘い餡子が口いっぱいに広がった。

破れ饅頭

宇久島で、破れ饅頭を食べた時から数十年を経て、私は自衛隊を定年退官し、ある民間の会社に再就職した。それは64歳の春のことだったと思う。宮崎県に出張した折、宮崎空港駅で破れ饅頭の広告の看板を見た。看板には破れ饅頭の写真とその来歴が書いてあった。私はふと子供の頃、茂子叔母と一緒に食べた破れ饅頭の思い出が蘇った。懐かしさの余り、宣伝文を丹念に読んだら、こう書いてあった。
 
「アマテラスオオミカミが天岩戸に隠れたとき、アメノウズメノミコトがオガタマノキの小枝を持って舞ったという神話に因んで1605年に延岡藩の菓子屋の主人がオガタマノキの果実をかたどって売り出したのが始まりで、延岡の郷土菓子として今に伝わる」

オガタマノキは今も「神事」に使われ、宮崎県高千穂町のシンボルとなっているそうだ。


かす巻も破れ饅頭に勝るとも劣らない美味しい菓子だった。かす巻とは、餡(小豆餡または白餡)を、文字通り、カステラの生地で海苔巻きのように巻いた菓子のことである。鎖国時代、西洋文明を受け入れる唯一の窓口だった長崎で、かす巻が生まれたのには合点がいく。軽やかでふんわりとした心地よい食感とほのかな甘みは西洋の味だった。中身の餡子は紛れもなく日本のスイーツ。和洋コラボのおいしい菓子だった。当時は、終戦直後で、物資が欠乏していた時代のはずだが、子供の舌で味わった味覚の記憶は、実に豊かで素晴らしいものだった。
 
風の強い島の環境には果樹栽培は不向きで、果樹園と呼ばれるほどのものはなかった。幸いに、我が家には祖父が夏ミカン、水蜜桃、木苺、杏子、イチジク、ビワ、ビックリグミ、金柑などを庭に植えてくれ、私は季節ごとに味わうことが出来た。それに加えて、茂子叔母は学校の帰りに、神浦町のミセから果物も買ってきてくれた。茂子叔母は宇久島の外の〝本土〟の果樹園で本格的に栽培・収穫された品質の良いもので、我が家にあるものと比べ格別美味しかった。また、我が家には植えていない林檎、温州みかん、葡萄も買ってきてくれた。子供時分の記憶では、果物がとてつもなく大きかった。茂子叔母がお土産にくれた林檎も、蜜柑も、柿も、桃も子供の私にはずいぶんと大きく見え、甘くて食べごたえがあった。

私は、陸上自衛隊西部方面総監部勤務時代(2003年7月~05年3月)、直木賞受賞作家の光岡明氏(1932~2004年)が駐屯地を訪ねて来られ、お目にかかる機会があった。光岡氏が亡くなられる前年(03年)の秋のことだったと思う。光岡氏とお茶を飲みながら宇久島の子供の頃の話をした。帰り際に、私の子供の頃の思い出を綴った「椰子の実随想」を差し上げた。直木賞作家に自分が書いたエッセイを差し上げるなど、私は相当に厚かましい人間だ。意外なことに、後日、光岡氏からお手紙を頂いた。

「(前略)福山さんの宇久島で育った少年時代の思い出の記を興味深くも面白く拝見しました。(中略)福山さんの思い出の記を読むと「しまちゃび」という言葉を思い出しました。(後略)」

私は「しまちゃび」という言葉が何を意味するのか知らなかった。調べてみると、「しまちゃび」とは、「離島苦、島痛み、孤島苦と文字が当てられ、福祉と医療、教育、福祉などの離島で生活する人々の悲惨な状況をいう」とある。

光岡氏のお手紙に書かれた「しまちゃび」説をよんで、私は「そうじゃない」と思った。熊本市に生まれ、育った光岡氏の離島のイメージでは「しまちゃび」とは「悲惨」なものなんだろう。しかし、私は子供の頃を振り返り、「悲惨さ」を実感したことはない。それどころか、宇久島はまさに「エデンの園」のように楽園であったと思う。当時の島の人達は豊かな自然の中で、都会のようなストレスはなく、それなりに満ち足りた幸せな暮らしをしていたと思う。

茂子叔母は私が小学校に上がる前に嫁に行った。相手は、同じ神浦小学校の先生の向山清太夫という古めかしい名前の青年だった。向山先生は寺島の出身で、向山家の次男だった。寺島は宇久島の南西に浮かぶ小さな島だ。宇久島の面積は24.9㎢に対し、寺島は1.3㎢に過ぎない。茂子叔母は嫁に行けばそんな小さな島の住人になるのだろうかとおもったが、そうではなかった。二人は私が小学3年生のころまでは、神浦小学校にいたが、長崎県下の小学校――九州本土――に転勤し、寺島に住むことはなかった。


私は知らなかったが、実は向山先生とは結婚以前に会っていた。それは私が5歳の時だったと思うが、5月5日の子供の日に行われた鮒釣りのピクニックの時だった。ピクニックに参加したのは、神浦小学校の数名の若手の先生達のグループだった。茂子叔母は私をピクニックに連れて行ってくれた。場所は宇久島の西の端に近い宮の首という集落の近くを流れる小川の土手だった。福浦部落の我が家から宮の首までは2.5キロほどの道のりだった。4歳か5歳の私が、宮の首までどうやって行ったのかは覚えていない。叔母に手を引かれて歩いて行ったのか、あるいは、叔母の自転車の後ろに乗せてもらったのか。

叔母と私が釣りの場所となるお宮の首の小川の土手に着くと、他の先生たちが数名集まっていた。一人の若い男の先生が釣り竿と仕掛けを用意して私に手渡してくれた。その先生は、空き缶の中からミミズをつまんで私の釣り針に刺してくれた。親切な先生は、「ホラ、目の前の小川の水の中に小鮒が沢山見えるだろう。釣り針の付いた餌を鮒の群れの中に入れてごらん。すぐに食いついてくるよ。」と教えてくれた。土手の上から小川の中をのぞくと深さ50センチほどの比較的に澄んだ緩やかな流れの中に数匹の小鮒が群れ遊んでいた。

私が、教わった通りに釣り針に付けたミミズを鮒の群れの中に投げ入れるとすぐにアタリがあって、一匹の小鮒が道糸を引っ張って逃げ回った。小鮒の逃げ回ると、道糸を通して竿が引っ張られた。私は、それに反応して、本能的に、竿を小鮒が逃げる方向とは反対方向に引っ張った。すると、私の傍にいた先生は、「上手だね。上の方に竿を立ててそっと引き上げてごらん 」と教えてくれた。私が竿を立てて糸を引き上げると小鮒は観念したように水を脱して空中に舞い、土手の野芝の上に落下した。小鮒は、勢いよく草の上で跳ね回った。男の先生は、素早くその鮒を取り押さえると、釣り針を鮒の口から丁寧に外してくれた。先生はその鮒を私の手に握らせてくれた。水の中から引き揚げられたばかりの小鮒はひんやりとしていた。小鮒は私の手の中でビクッビクッと胴体を震わせた。先生はバケツに水を汲んできて、「その鮒をバケツに入れなさい」というので、私が小鮒をバケツの水に入れた。すると、小鮒は狭いバケツの中で勢いよく泳ぎ始めた。

私は、自分で釣った鮒を初めて間近に見た。形はアジやイワシのような丸い魚体を左右から押しつぶしたような平たい姿で、背中側はやや高く、腹側は平らだった。目は黒くて真ん丸で、頭はやや大きく、尾は細長めだった。色は、背中側は黄みの強い明るい萌黄色で光沢があった。また、腹側は白く見えたが、光の加減では銀色に見えた。

その先生は、「鮒ば釣り上げるとは大したもんたい。たかちゃんは釣りが上手だね。」とほめてくれた。その後も、何くれとなく私のせわをしてくれた。後で考えると、その先生こそが茂子叔母と間もなく結婚することになる向山清太夫先生だったのだろう。なぜか私は、あの子供の時に参加した鮒釣りの情景を今も朧気ながらも大切な思い出として覚えている。

茂子叔母はお嫁に行ったのは、鮒釣りをした年の秋だったと思う。嫁ぐ日の朝、茂子叔母は髪を文金高島田に結い上げ、白無垢を身に着けた。茂子叔母は村人の祝福と見送りを受けて、オート三輪車に乗って、神浦港に向かった。私たち親族は一足先に神浦港に徒歩で移動した。私たちは神浦港で待ち合わせて、茂子叔母と一緒に漁船に乗り込んで寺島に向かった。午前中は凪で船は揺れなかった。私は茂子叔母の隣に座って、初めて見る島と海と空の景色を眺めていた。私は、茂子叔母とは殆ど言葉を交わさなかった。きっと、子供心にも別れが辛く、話す気にはなれなかったのだろう。

後年(1972年)、小柳ルミ子が「瀬戸の花嫁」を歌い、大ヒットとなった。私はこの歌を聞くたびに、茂子叔母と一緒に漁船に揺られながら、結婚式が行われる寺島に赴いたあの日のことを思いだす。「瀬戸の花嫁」の歌詞では、「行くなと泣いた」幼い弟に対して、嫁に行く姉は「男だったら泣いたりせずに 父さん母さん大事にしてね」というくだりがある。歌詞に出てくる姉と幼い弟は、茂子叔母と私との関係に似ている。花嫁衣裳に身を包んだ茂子叔母は普段とは違う雰囲気があり、数十分間の船の移動の途中では、「瀬戸の花嫁」の姉のように、私にお別れの言葉などをかけてくれた記憶はない。

寺島の新郎・向山清太夫さんの実家に着くと多くの親戚が同家に集まっていた。早速婚礼の儀式が行われた後に、賑やかな酒宴が夕方近くまで繰り広げられた。子供の私にはお酒を飲んでご馳走を食べ、賑やかに挨拶を交わす大人の仲間に加わることはできず、母の傍でぽつねんと座り、徒然と過ごした宴はお昼ごろから夕刻ま続いた。宴が終わると船で宇久島に戻らなければならない。私の親戚一同は向山家を辞して寺島の港に向かった。向山家を出る時、茂子叔母が私の頭を撫でながら何か言葉をかけてくれたが、その内容は思い出せない。

帰りの海は風が出て波が高くなっていて、船が上下左右に揺れた。私は潮の飛沫を浴びながら母に抱かれていた。もうそこには茂子叔母はいなかった。そのことで、私は徐々に寂しさがこみ上げてきた。なんと、それと同時に、船酔いまでもこみあげてきた。私は泣き出すと同時に、船縁から顔を海の上に出して海中に嘔吐した。白っぽい嘔吐物が海中に吐瀉されると一瞬のうちに過ぎ去った。何もなかったように。だが、涙は一向に止まなかった。家に帰り着くまで、泣き続けた。私は、「瀬戸の花嫁」に出てくる幼い弟と同様に矢張り泣いてしまったのだった。

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