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一休さんのエンディングテーマ
先週のラジオ(アフター6ジャンクション2)で、アニメ『一休さん』のエンディングテーマが流れてて、一瞬で子どもの自分に戻った気がした。
蓋し名曲。
一休さんが決して会えない母上に書くお手紙を読む、メランコリックな1曲で。そういえば、アニメの一休さんの最終回も子ども心にすごかった。和尚さんだけに寺を去ることを伝えて、夜明けの朝日と共に旅立つ一休さん。なんでか異変を感じてかけつける新右衛門殿。涙の別れ……「完」(記憶のみで書いています)。
その後、一休禅師が、仏教界に反骨精神を持っていたパンクな破戒僧だったと知るのは大学生を終える頃(屁にまつわるエピソードだった気がするけれど、思い出せず)。もちろん、禅師が、お正月に頭蓋骨を持ちながら街中を歩いて詠んだという句はカッコイイなと思うわけで。
「正月(門松)は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」
今さら気になるのが、一休さんを「とんちの一休さん」としてアニメ化した背景。何か元ネタがあったのだろうか。
ところで、一番有名なこの一休さんの顔がわたしの伯父にとても似ている。そんなことからも親近感を感じるのだ。
一休さんのみならず、当時のアニメのエンディングは短調が多かったのなぜだろう。『あさりちゃん』の「私は女の子」もしかりで、前半の歌詞は全然さみしくないのに(起きているときはごはん、ごはん)、後半から「ママもっと本当のこといって」とかまあまあ切ない(小林亜星 作曲)。
でも記憶に残っているのってエンディングのことが多いから、短調の方が長期記憶に左右する、みたいな何かがあるのだろうか。