ゲーム機の思い出
いわゆる家庭用TVゲーム機、専門用語でコンシューマーゲーム機においては僕の歴史は闇が深い。初めて遊んだのは確か目の下に広い道路が見える白いタワーマンション高層階の白い部屋で、そこは僕の友達の家では多分無くて多分親の友人か何かの家にお呼ばれしてその光り輝く素晴らしいマシンが設置してあったのを覚えている。そのハイカラな持ち主はそこの家の子なのかその親自体なのかも今では思い出せないのだが、その広い窓から見える広々とした景色は、静岡にいた頃、その後期の4〜6歳の頃に違いない。僕は京都生まれだが幼少期は一時的に静岡に行っていたのだ。するとファミコンなどはまだまだで、エポック社のカセットビジョンも出ていない。詳しくないのでWikiに頼るとエポック社からその時代何種類もカセットビジョンの前身となるような、カートリッジは取り替えられないマシンが登場してたらしく、どうやらそのどれかな気がする。ポンのような単純なゲームだったような… でもカートリッジを交換していなかっただろうか?だとするとそれは、ちょっと高級なATARIそのものだ。レースゲームも遊んだ気がする。僕のTVゲーム初体験はエポック社が代理販売していたATARIだったのだ。
その頃の僕はどこで知ったのかこれからTVゲームの時代が来ることを予感していた。デパートのおもちゃ売り場に行くごとに新しいTVゲーム機が登場していたのだ。それを触らせれてもらい遊ばせてもらうことがなかな出来なくても、デモ画面を見ているだけでも楽しかった。人のプレイを見る時は、自分が遊ぶ時のためにそのプレイと状況をよく見て研究しておくように必死で見ていた。自分の番が回ってきたときに一発でうまく遊べるように。それから帰ってからも遊んでる姿を妄想できるように。夢で自由自在に遊べるように。
さて実際に我が家にテレビゲーム機が来る前に、もうひと段階があった。任天堂のゲームウォッチだ。皆それに夢中になって、公園で遊んだ。僕はゲームウォッチは手に入れられず、もうすこし大型のノンブランドの(任天堂のゲームウォッチ以外はノンブランドなのである)暗い画面を背後からLEDか豆電球で照らされたUFOを叩いて撃ち落とすようなゲーム機しか持っていなかったが、これはこれで面白かった。ただブランドでは無いし、みんなとスコアを競うことも出来ないが…。
それからご存知の通り僕はパソコンを得てゲームを入力して遊ぶ術を得て、さらに市内の別校区に引っ越して、世間はあの「ゼビウス」ができる任天堂のファミコン登場のブームが沸き起こったが、我が家にはパソコンがあるし、ゲーセンで遊んでるからか、あまり欲しくなく、いや、欲しいのを我慢して、友達のうちで遠慮がちに遊ばせてもらう日々を送った。ファミコン仲間は基本カセットの貸し借りができることが条件で、僕にはそれが無くそれでも遊ばせてもらえるのは何だか後ろめたさがあった。それから1年弱して確かクリスマスプレゼントとして僕は自分のTVゲーム機、セガSC-1000IIを買ってもらった。これは世間への反抗心だった。任天堂は(ゲームの聖域である)ゲームセンターでは活躍していない(いや誤解なのだが)。ゲームの王様はセガなのだ。だから僕はセガにした。ソフトは悩んだが、いろんな要素が詰まってそうな「ピットフォール」にした。横スクロールして財宝を求めて冒険する。そう、僕の選択には明らかにファミコンの、大ヒットしていたタイトル、スーパーマリオブラザースの影響があった。洋ゲーであるピットフォールは難しく、クリアするのに半年かかった。うん、今思えばピットフォールは接客には向いていなかったな。難しすぎて、みんな序盤でつまづいたし地味だった。次に買ったのはまた洋ゲーの「ヒーロー」という洞窟をホバ リングして人を助けるというゲームで、これは始まったら5秒で死ぬという鬼のようなゲームだった。買わなきゃよかった…とは必死に思わないように頑張った。ここでも僕は人気者になれず…。その頃の小学生の放課後は外で元気に遊ぶこともあるが、多くは誰かが手に入れた新作のファミコンゲームのお披露目会を楽しむ会となっていた。あるいは、学校にはあまり出席しないのに、ともかく沢山ゲームを持っていた「ゲーム王」と呼ばれる慕われ崇拝されていた子のうちに集まっていた。僕はそれにもたまに参加したが、生意気だ、と思う心と嫉妬心が両立ししかし表には見せないようにと心は忙しかった。ファミコンはそんなに好きじゃない、そんなにすごくないし。そう思っていた。ファミコンの時代はしばらく続いた。友人がファミリーベーシックというファミコンでプログラミングができるシステムを買ったと聞いたとき、すかさず赴いてその場でマニュアルをぱっと見て1時間たらずでちょっとしたゲームを作ってみせた。僕は必死で地位を確保しようとしていたのだろう。ある日、近所で生徒会長のクラスメートが「福ちゃんが好きそうなゲームがあるよ」といってエニックスのファミコンソフト「ドラゴンクエスト」を見せてくれた。これには非常に感銘を受けた。すでにパソコンで地味なRPGは遊んだことがあったが、これは非常にストーリーが作り込まれていて、本当に冒険しているような気分にさせてくれた。世の中はファンタジーRPG・ブームが到来しようとしていた。僕もファンタジー小説などを好んで読んだ。それからノートいっぱいに書いた自作のファンタジー・アドベンチャーゲームを教室で披露したりしていたら、また例の生徒会長から、「それと同じようなものが本屋で売っていたよ」と教えてくれた。ファイティング・ファンタジーという今や伝説のシリーズの「ゲームブック」だった。しばらくしてセガの上位機種のセガ・マークIIIを買った。マークIIIは画面がファミコンよりも綺麗で性能もゲームセンターさながらで(そんな気がしただけだが)、誰も持っておらず僕はこれを愛した。しかし僕の「ゲーム王」としての地位は少しも復権しなかったが、ことゲームに関しては一目置かれるようになっていたと思う。僕は誰かと張り合っていた…。そうだ、僕はゲーセンで最新のゲームを全て遊んでるし、作ることもできるし、情報誌も必死で読んでいるし、セガも持っている…。僕はゲームに関して一番でありたかったんだと思う。しかしもう中学生になり近所の子は殆どがそのまま同じ中学に行ったが例の学校一の秀才のゲーセン友達と、それから一番近所で彼も秀才でそして非常に大人しくて優しくて美少年だった友人は、違う中学、私立進学校に行ったらしい。そんな選択肢があるとは、全く考えていなかったしこの突然の別れですこしショックだった…。余談だがそんな時また例のもと生徒会長から、「福ちゃんの好きそうな漫画があるよ」と言って漫画「ジョジョ」を教えてくれた。作者の既作は読んでいて好きだったが、まさにそれは、僕の生き方のバイブルとなった。その町では色んなことがあった。妹のクラスメートがアイドルデビューしてTVに何度も出たり、近所のおばさんが通学路で自殺したりして、僕は生と死や、魂・意識について、輪廻について考えるようになった。どうして僕はこの体に芽生えて他の体じゃなかったんだろう?とか。そして僕のうちは京都から滋賀県・草津市の近くに突然引っ越すことになった。すぐに僕はファミコンを手に入れた。今考えるとまるで京都の連中にはこっそりと手に入れたような感じだ…。田舎町で僕はファミコンもマークIIIもパソコンも持ってるという事で、すぐに人気者になった。ドラクエ3は発売日にすぐに手に入れ、最速クリアを(誰かと)競って徹夜で遊んだ。その地元に小さなゲームショップがあって、そこの店員のお兄さんが僕の趣味をよく把握し的確にレアなゲームを紹介してくれて、毎回買っていたがつまりいいカモだったのだろう…。中学が終わる頃僕は少し反抗期だったのか、高校に行かないと駄々をこねて両親を困らせたことがある。結局「通学が楽だから」という理由で一番近くのすこし賢い進学校に決まった。その時である。友達の中で大人しい優しい特に親しかったA君が同じ高校を受けて不合格となり、遠い地方の高校に行くことになったのだ。僕はそれが非常にショックで、反抗期の後の思春期という「考えすぎる病」に患っていたのか、高校に入学すると何だか友達を作ろうと必死になることがとても嫌らしい気になって(むしろ今まで何度も転校してきているし友達作りは得意だという自負もあったことも変に作用して)、学校では一切友達を作らないぞという方針を貫こうとした。なので孤立した。孤立して、独りのあいだいろんなことを考えて、本で調べて勉強した。哲学、心理学…とくに人がどのようなプロセスで理解し考えるかを学問する認知心理学を、宗教、芸術などを。以前の記事で人工知能のプログラムに没頭したことも書いたがそれだ。卒業した中学の仲間とはたまに遊んだが、TVゲームもそれほど熱中しなくなっていた。それからTVゲームは次世代機、3Dの時代になって行くが、その頃はもう僕はいつの間にかプロのゲームプログラマーになっていたので、視点が完全に開発者目線となり、TVゲームファンとしての僕の心はフェードアウトしていた。なのでもうこの話しは終わりにしようと思う。が、あと一点追加させて欲しい。その開発者時代に3DO(というゲーム機)およびセガサターンで「Dの食卓」というゲームが新興のゲーム会社WARPから発売され話題になった。それまでもそんな構想はあったが、映画の画面をそのままゲームにすることに初めて成功した作品だった。僕はいたくそれに感銘し、その会社で働きたくなり初めて自ら「求職活動」応募して、東京まで行って飯野賢治氏と面接し、そして落ちた。