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【再録】かじると歯茎から血が出ませんか(全4回)

はじめに

2004年に創刊し、当時のフリーペーパーブームの草分け的存在となった(と書くとそれっぽいから書いてみただけで、そんなブームあったか知らないし、実際はその頃すでにフリーペーパーはたくさんあったと思うけど)「R25」が、2017年4月28日をもってサービスを終了することが発表された。

今でこそWEBメディア全盛の時代で「ニュースや情報が無料」というのは当たり前の感覚になっているし、「R25」自体も2015年からフリーペーパーとしては休刊し、WEB版のみに移行していたものの、2004年の創刊当時は「無料で情報誌レベルの記事が毎週手に取って読める」というのはそれなりに画期的なことだったように思う。

そんな「R25」が、2004年7月の本創刊より4ヶ月前、同年3月に4号だけのパイロット版(テスト創刊)を発行していたことを覚えている方はいるだろうか。で、実は私、そこに連載させてもらっていたんですよ。

当時まだ大学3年生になる直前。その前年に、これも今はなき「Weeklyぴあ」主催の「第2回ぴあコラム大賞」という、今となってはもう誰も知らない公募賞レースで大賞をもらい、「ぴあ」に半年だけコラムを連載していた私は、それを読んでいた奇特な編集者に声をかけていただき、この鳴り物入りで始まるというビッグプロジェクトに、学生の分際でコラムニストとして文章を書かせてもらうことになったのである。

「R25」の名の通り、30歳前後のビジネスマンを読者ターゲットにした雑誌に相応しく、そのテーマは「今さら意味を聞けない聞きかじりのビジネス用語を、おもしろおかしく解説する」というもの。しかし、当然ながら社会人経験ゼロの私がビジネス用語の本質を理解していようはずもなく、ふざけすぎたのか、はたまた先鋭的すぎたのか、パイロット版の全4回で私はその職責をまっとうし、本創刊からはぱたりと呼ばれなくなったのであった。

本創刊を見ると、そこには名だたる連載陣の名前が並んでおり、そもそもまったくの無名だった私がパイロット版とはいえ書かせてもらえたこと自体が出版の神様の采配ミスのようなできごとだったわけで、私の中では「地方から出てきたFラン女子大生の私が手越クンに一晩抱いてもらえた!」みたいな青春のよき1ページとして刻まれているのだが、今回、「R25」サービス終了の報でノスタルジーに駆られ、当時の原稿を読み返してみたら、そこそこ面白かったので、私なりの「R25」へのはなむけとして、ここに全文公開してみようと思う。

正直、今の感覚で読むとポリコレ的にどうかと思う部分もあるし、なにより当時の私が松尾スズキさんの文体に影響を受けすぎているのがとても恥ずかしく僭越なのだが、今の私には書けないアグレッシブさがあるのも事実であり、13年前の自分からの「福田よ、もっとトガっていけよ」というエールだと思って、以下、自分のために掲載しておく。喩えや引き合いに出している時事ネタや流行りものがめちゃくちゃ古いのは、2004年であることを考慮して読んでください。

(2017年3月1日公開)

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#1「コンプライアンス」

昔やらかしたツケが、隠しきれないひずみとなってボロボロはがれ落ちてきている。

「マイケル・ジャクソンの顔」の話ではない。企業による不祥事が連日のように発覚するのを受けての印象だ。「今までの黒い体質がこんなに溜まっていたなんて!?」。小鼻の毛穴パックをはがしてびっくり、みたいな呆れ半分の衝撃である。

そんな失墜した消費者の信頼を取り戻すべく企業倫理の再構築が語られる中で、最近よく使われるのが「コンプライアンス」という言葉だ。いまや大抵の企業のHPで「わが社のコンプライアンスへの取り組み」を躍起になってPRしているが、躍起になるあまりその語り口はたまにわけのわからないことになっている。

たとえば、千葉県の某商工信用組合のHPを見てみよう。

「コンプライアンス推進のため、コンプライアンス委員会及びコンプライアンス管理責任者・担当者を設置し、コンプライアンス体制の充実を図っております。また各部店においてコンプライアンス研修の実施、コンプライアンス・オフィサー資格取得等に積極的に取り組み、職員一人一人がコンプライアンスを実施することにより、より責任ある健全で安心の月額完全定額制で無修正動画をダウンロードし放題!」

……あ、ごめん。なんかあまりのわからなさに途方に暮れて、思わず途中からエロサイト開いてた。なにこれ、クイズ? さてコンプライアンスと全部で何回言ったでしょう、みたいなクイズなのかこれは。これだけヒステリックに連呼しておきながら、肝心の意味がすがすがしいほど伝わってこないのがすごい。

このように、どうも我々はコンプライアンスという言葉に対して「小倉智昭の前でヅラの話をする時」みたいなぎこちない接し方しかできないのである。「法令遵守」と訳してみたり、リスクマネジメントの一環として立体的な意味を持たせたりしたところで、つまるところ「ルールはきちんと守りましょう」という小学一年生の学級目標レベルの話に還元できてしまうところに、この言葉の根源的なバツの悪さがあるのだ。

もともと日本人のモラル観って、他人様に見られて「恥」かどうかがネックであって、「寄合」とか「村八分」みたいな発想の「なあなあのグルーヴ感」で決まるじゃない? 大貧民のルールって地方によって違うから、その都度その場でなんとなく歩み寄って適当なルールになるじゃない? とくダネはスッパ抜けても小倉の頭はすっぽ抜けないわけじゃない?

いくら倫理規定を整備したり監視機能を置いたところで、最終的に日本人の行動規範は、周囲のムードが「恥」とジャッジを下すか否かにかかっているような気がするわけで。その、気にするべきムードの矛先が、企業の場合どうしても「お客様」ではなく「内部の人間」に向かってしまうところに問題の根があるんじゃないだろうか。

聞きかじりのビジネス用語は、ヘタにかじると歯茎から血が滲む。滲んだ血を見て恥じ入って、その恥に背を押されて私は生きたい。

(「R25(パイロット版)」2004年3月4日号掲載)

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#2「イノベーター」

先日、「もえたん」というものの存在を知ってドギモを抜かされた。「ドギモってどこ?」という疑問はこの際ねじふせての話である。「萌える英単語」。HPによれば、「2次元美少女が受験勉強をナビゲートしてくれる、従来にはなかった新しい英単語集」だそうだ。「イチゴと大福」とか「ノーパンとしゃぶしゃぶ」も斬新な組み合わせだったが、「萌えキャラと英単語集」という合わせ技の異色さは、いっそ「干し柿と母子手帳」とか「生理用ナプキンとガッツ石松」の領域に近い気がする。

しかしドギモの抜きどころは、この「もえたん」が「軒並み売れている」という事実である。これがたとえば「女王様と覚える英単語」とか「うなじで覚える英単語」では決して成功しなかっただろうということからも、もはや「萌え系文化」はかなりメジャーな市場として成熟していることを思い知らされる。その消費者層の拡大たるや、「ふえるわかめちゃん」「カスピ海ヨーグルト」「手についたバイ菌はこんなに速いスピードで増えていきますっていうときの顕微鏡映像」などを次々と彷彿させる勢いだ。

そんな萌え系ムーブメントも、はじめはおびただしく細分化されたオタク銀河の中で、ケナゲにまたたく星のひとつに過ぎなかったはずだ。それが一等星として輝く道を許されたのは、おそらく秋葉原一帯に影響力を持つオピニオンリーダーたちに採用されたおかげである。勝てば官軍。犬の無駄吠えも地震が起きれば「予知した」と褒められるように、「イノベーター」はその後に「アーリーアダプター」が続いてくれなければ、ただの「インベーダー」で終わる危険を常にはらんでいるのである。

幸い(なのかなんなのか)、萌え系の浸透過程は次の「アーリーマジョリティー」の段階にまで確実に移行してきていると言えるだろう。いまやテレビで放映されているアニメの半分は「大きなお友達」向けと言われ、一般大衆の潜在的な「萌えポテンシャル」への訴求はノンストップが止まらない。その火種をついに市場の金脈・受験産業にまで引火させた「もえたん」のタイミングの絶妙さには恐れ入った。

こうしたイノベーションの採用過程はあらゆるものにゴリ押しで当てはめることもできるわけで、たとえば美輪明宏。おそらく当時お茶の間的にまだ「ギリギリ」だったであろう彼が率先してTVへの露出を果たしたおかげで、池畑慎之介や美川憲一は芸能人として「あり」になったのだろうし、続くおすぎとピーコが「画面の中をオカマがはしゃぐ」ことに対する視聴者の耐性を育ててくれたおかげで、最近話題の「おねえキャラ」たちはブレイクを許されているのである。彼らは段階的には完全に「フォロワー」。山咲トオル、KABAちゃん、假屋崎省吾よ。みんな一日5回美輪明宏のいる方角に向かって礼拝せよ、つう話なのである。

そして、今。U15世代アイドルの台頭や村上隆の登場、そして芥川賞受賞の綿矢りさに対する一部世論の「りさたん、萌え~」の声。これらが私には、萌え系市場における「フォロワー」登場への遠大なる布石と思えるのだが、果たしてうがちすぎだろうか。

 (「R25(パイロット版)」2004年3月11日号掲載)

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#3「ナレッジマネジメント」

かつて「CCガールズ」という、なんというかその、グループがあった。いきなり歯切れの悪い書き出しになってしまったのは、今日び彼女たちに果たして「何グループ」という肩書きを与えたものか途方に暮れてしまったからだ。しかも今、勢いで「かつて」と過去形で書いてしまったにもかかわらず、このグループが目下存続中であるという事実も、事態をさらに気まずくしている。我々のCCガールズに対するこの圧倒的「おぼつかなさ」の原因は何か。それはひとえに、結成当初のメンバーがもはや誰も残っていない今、CCガールズのCCガールズたる所以が風化していてなんだか全然わからない、という点にあるのではないだろうか。

このように、リストラや人材の流動化によって、彼女たちがそれまで蓄積してきた「CCの理念」「CCの知恵」「CCのスキル」は失われていってしまう。企業においてこのリスクを避けようというのが「ナレッジマネジメント」のねらいのひとつである。ナレッジマネジメントでは、個人の職人的な経験則やノウハウなどカタチにできない知的資産(これを暗黙知という)までをも、データベース化された知識・情報(これを形式知という)として全社的に共有することが理想とされる。

たとえばモーニング娘。

……いや、あの、これまで読者層の世代をかんがみて「CCガールズ」でたとえてみたんだが、ここにきてひしひしと無理を感じはじめている私がいるので、ここはひとつ歩み寄りの精神で「モーニング娘。」あたりで手を打たせてほしいのである。たとえばモーニング娘。あそこにかつて「保田圭」という、沖縄のシーサーみたいな顔をしたけったいな娘がおったそうな。彼女が会得した「バラエティ番組でのキャラの立たせ方」というノウハウ。それは言語化や数値化ができない「暗黙知」であるがゆえに、「身をもってイジられる」という方法でもって「形式知化」させ、他のメンバーたちに伝達していかねばならなかった。彼女の涙ぐましいナレッジマネジメントの取り組みのおかげで、保田圭亡き後もモーニング娘。という企業風土には、「バラエティで活きる」という知的資産がみごと共有化されましたとさ、めでたしめでたし。

このように、言葉遊びの上でならうまいことも言えるナレッジマネジメントだが、いざ実践となると、そこには「保田圭ソロ活動の先行き」以上に不安な暗雲が立ち込めているような気がする。世にはびこる「小説の書き方」「マンガの描き方」などの指南本がたいてい役に立たないように、人は自分が苦労して会得したノウハウをうかつに教えてはくれない。もともと形式化できないから暗黙知なのに、それを形式知にしようとしても、それは「トリビアの泉」や「うんちく王」レベルの脈絡のない知識にしかならないんじゃないだろうか。

「トリビアの泉」のおもしろさは、検証VTRやナレーションのシュールなセンスなど、いわば「暗黙知」にあるのに、この番組を「形式知」にして説明してしまったらどうだろう。「無用な雑学知識を淡々と紹介していく番組」。なんだか全然おもしろくなさそうなのである。

(「R25(パイロット版)」2004年3月19日号掲載)

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#4「ストラテジー」

ストラテジー。「戦略」という意味の、日常ではあまり耳慣れない言葉である。それにしても語感が力強い。まず「ストラ」がすごい。一気呵成に巻き舌で言いたくなる。「ストラ!」指を差されてそう言われたら、なんか知らんが土下座であやまってしまいたくなるではないか。こちらに非はないのにだ。そして「テ」を間に経て舌の根も乾かぬうちに訪れる「ジー」の響き。重力を感じる。インドで物乞いの視線を浴びているようなプレッシャーである。

ことほどさように「ストラテジー」という言葉からは威圧感や説得力がみなぎっている。いかんせん戦略だ。戦なのである。これが「プラン」や「プロジェクト」ではいけないのだ。なにがいけないって「プ」がいけない。お互い刀を抜いたまま一分の隙も見せない真剣勝負の最中、突如相手が「プッチンプリン」などと口にしたらどうだ。耳に息を吹きかけられたようなわずかな脱力感から場の緊張感は一気に崩壊。確実に命取りとなるだろう。勝負の場に「プ」は御法度なのだ。

このように、カタカナ語には語感が大切である。サバンナに、よくライオンやチーターの標的になるトムソンガゼルという草食動物がいるが、動物番組などで彼らがあっけなく狩られるのを観るたび、お前「ガゼル」のくせに……とやりきれない気持ちになるものだ。だったら「トムソンチロル」とか「トムソンピロリ」とか、それ相応の名前にしろよと、理不尽な要求を突きつけたくもなるってものだ。

してまたカタカナ語には、ただそれだけで有無を言わせぬ不思議な説得力といったものも存在する。「二番煎じ」が、「カバー」や「リミックス」という言葉で語られた途端「あり」になる例を思い出してほしい。「独り相撲」という言葉にはえも言われぬ負け犬感が漂うが、これを次のように言い換えてみたらどうだろう。

「結局は僕のシャドーボクシングだった」

なんだかかっこいいことをしている気分にすらなるじゃないか。

黒船来航のとき、見てもいないのに風説伝聞だけで怪物みたいなペリーの似顔絵をでっちあげてしまった日本人。その異国情緒に対する「気分」が、そのまま現在の我々のカタカナ語に対する「気分」でもあるような気がする。ないような気もする。どっちでもいい。

 そんなこんなを加味して踏まえてでっちあげてみると、ストラテジーという言葉には並々ならぬ仰々しさが漂っている。さすがは生き馬の目を抜くビジネス業界。「夕飯の献立のストラテジー」「オムツ離れのストラテジー」「カレーとライスの配分のストラテジー」などとは決して言わないことからも、ビジネスにおけるそれには相応の気合いと士気が必要だということがわかる。「戦略」という日本語自体にもかなりガチガチの意気込みが感じられるが、「ストラテジー」には「志垣太郎の額に浮かぶ青筋」がごときワンランク上の力みがみなぎっている。「公約」と「マニフェスト」が似て非なるものとされたように、我々はそこに漠然とした「気分のストラテジー」を駆使して、日々ケナゲな使い分けをしているのである。

(「R25(パイロット版)」2004年3年25日号掲載)

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