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魁!!テレビ塾 第3訓『明日、ママがいない』

【注記】
これは、学研「GetNavi」2014年2月号〜2017年5月号に連載していたテレビ評コラムの再録です。番組データ、放送内容はすべて掲載当時のものです。私の主張や持論も現在では変化している点が多々ありますが、本文は当時のまま掲載し、文末に2023年現在の寸評を追記しました。

虚構の文脈が通用しない
潔癖性の世間に絶望した!

 押忍!! ワシが当テレビ塾塾長、福田フクスケである! ワシは今、倦んでいる。そして憂いている。「ウンデルとウレーデル」という童話を書きたいくらいだ。そんなヤバい駄洒落をノーガードで書いちゃうくらい絶望しているのは、ほかでもない『明日、ママがいない』を巡る騒動のせいである。

 このドラマがハナから「児童養護施設のリアルな実態」なんて描く気がビタ一文ないダークファンタジーだってことは、第一話でホラーな演出とともに三上博史が杖で片足引きずりながら出てきた時点でわかりきってることだった。

 いかにも大げさで退廃的な90年代そのままの野島伸司ワールドが、いまさら時代遅れで笑っちゃうよね……という点を除けば、本作が「子役業界の悲哀」を皮肉ったパロディであり(芦田愛菜が嘘泣きのうまいリーダー格、大後寿々花が成長しすぎてなお居残っている役を演じているのが秀逸!)、その見立てを通し、親子の愛情への欺瞞や本質に斬り込む名作になる可能性は大いにあったはずだ。

 それなのに、放送中止の抗議やスポンサー降板騒動を経て内容の変更が発表されてからというもの、なんだか安易で無難な凡作に失速してしまった感は否めない。それがワシは残念でならんのだ。

 そこに真摯な批評性や寓話性があるなら、フィクションの中に「現実を誤解させる描写」「差別を助長する表現」それ自体は、あって構わないとすらワシは思っている。

 もちろん幼児へのゾーニングとか最低限の配慮は必要だと思う。しかし、毒や醜悪さやトラウマを、「見ると傷付くから見たくない!」とテレビから排除させようとするのは、それこそ全能感にしがみつく潔癖性の幼児が、駄々をこねてるみたいじゃないでちゅか?

◆今月の名言

「今日、アンタが親を捨てた日にするんだ」(芦田愛菜)

『明日、ママがいない』2014年1月15日(水)OA(日本テレビ系)

ポスト(芦田愛菜)という劇中の呼び名や、「お前たちはペットショップの犬と同じ」といった児童養護施設の描写が、放送中止要請、スポンサー降板、内容変更の騒動へ発展した。脚本監修は野島伸司。

(初出:学研「GetNavi」2014年4月号)

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【2023年の追記】

この辺りの問題に関しては、当時よりも世の中がだいぶセンシティブになってきていて、私も今となってはこのときみたいに挑発的な論調はもはや取れないな、と思っています。

ただ、「このドラマは児童養護施設という”設定”を表向き借りているだけであって、本当のねらいは児童養護施設に象徴させている別の何かを描くことなのだ」という見立てや寓意が通用しなくなっている風潮については、今もモヤモヤを感じていて結論が出せません。そんな野暮なことを、いちいち懇切丁寧に視聴者に説明してあげなきゃいけない義理はない、と心のどこかで思っている自分がいるんです。

そうやって見る人のリテラシーを低く低く見積もって甘やかすような態度が、巡り巡って「洋画の日本版ポスターのデザインだけがダサくなる現象」や、「本来の意味を脱臭された邦題がつけられてしまう問題」に繋がっているんじゃないのか、とどうしても思ってしまうんですよね。

しかし、それとは別に、近年の野島伸司や北川悦吏子が「持ち前の作家性だけで押し切り、現実をリサーチしたり価値観をアップデートしたりするのを怠った結果、書くものが決定的にズレてきてしまった」という問題もまた事実としてあるので、事態は複雑なわけですが。

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