往復声簡10日目|自分が光をあてた先にのびる影を自覚する。それでも、いま、書くことを選ぶ。
4月13日(火)
朝、前日の日記を読み直してから公開しました。
公開するまえに、迷ったんですけど、下の二文につづけて、
たのしいことだけやって生きたい。
たのしいことで生活できたらいいな。
「自分が納得できるところへ精をだしたいという気持ちです。」
の一文を付け足しました。
自分のどこかで
「たのしい=楽」
「たのしいことだけしたいなんてわがまま」
「たのしいことだけするなんて無理なこと」
ていう思い込みがあるんだろうなと思いました。
自分への言い訳のように、あと周囲からくるかもしれない声から一線を引くために、「自分が納得できるところへ精をだしたいという気持ちです。」とつけちゃいました。
まあ、どの文章も正直な気持ちなんですけど。
あったかいお茶をもって公園へ行きました。
曇り空の下で、ジェーン・スーさんの「生きるとか死ぬとか父親とか」を朗読しました。
おはなしのなかに、「私は自らエディットした物語に酔っていた。」という、よく見せようとしてしまっていることへの気づき、加えて、「この男にはひどく傷付けられたこともあったではないか。」と書かれていて、とても共感しました。
わたしが、家族とのエッセイを書いたとき、そこでみたキラキラを思い出しながら書いた。
でも、その場面以外のことは書かれていない。
だって、わたしが、書いていないから。
キラキラ以外のところでは、傷つくことだってたくさんあったんだ。
文章を書くこと自体が、物事の一面を切り取る行為なので、そこに、書き手としてどこに、どういう角度で光をあてるのか。
もちろん、読んだ人にどう感じ取ってほしいのかだって考えます。
書く際に抱く、自分の「自意識」に敏感でありたいです。
自意識が高い。もうそれでいいじゃない。
そういう自分も、じっくり観察したい気分です。
いま、書くことが、自分を表現して理解して、自己治癒になっています。
けれど、光をあてれば、当然、影は生まれる。
影に隠れているのは、自分が見ようとしない自分か、自分の思いやりが足りなくて隠してしまった誰か。
書くことが、自己治癒でありつつも、
自分を、誰かを、傷つけていることに自覚的でいよう。
そして、わたしは、いま、自分のために、書くことを選びます。
過去の傷ついた自分を思い出したら、そのころの自分によく耐えたねー、えらいねーって、励ましてあげたい。
でも、思いだすことにも、思いやることにも、もうちょっと時間がかかりそうです。
その時を待ちます。
朗読では、昨日書いたばかりの「やわらかい壁。」も読みました。
キーワードとしてだいじなものになりそうな予感があるので、みんなへ共有しました。
今日は、声を聴き直したりする合間をつくらずに、パソコンへ向かいました。
届いた声:〇
贈った声:〇
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朗読した声を贈りあう「往復声簡」についてはこちらからどうぞ。
家族にまつわるエッセイはこちらです。
たべる記憶を咀嚼する
自分のたべてきたものの記憶をほりおこし。文に紡ぐことで、記憶を咀嚼してからだにいれていきます。もぐもぐ。