ダウン・バイ・ザ・リバーサイド(2)
7 うなぎ
いつまで経ってもうなぎが釣れない。そして前回の中川スメルに満ちあふれたシーバスを食べてから、ぼくの中で「仮に釣れたとして中川のうなぎは美味いのか?」という疑念が頭をもたげ始めた。
いやしかし、うなぎを釣らないことには話は始まらない。
美味いに決まってる。
ミミズ、行ってこい。
うなぎに食べられてこい。
ぼくはペットボトル仕掛けの針を懲りずに投げ続けた。
8 さくま
還暦を越えてから、何を思ったか「車の免許が取りたい」と佐久間さんが言い出した。
持っていなかったんだ、とぼくは思った。
ぼくも自動車の免許を持っていない。いい歳をして自動車を運転する資格すらないのは大人として「ちゃんとしていない」気がしている。
ぼくと同様に大して若くもないのに車の免許を持っていない人を見ると、こいつも多分人として終わっているんじゃないか、という妄想をすることがある。
逆にものすごいカスっぽい人が自動車の運転をしていると、こんなカスでも車を運転できるのにぼくは、と妙な敗北感を感じる。
実際ぼくは電車やバスなどの交通網の発達した東京に住んでいて、職業はピアニストなので、車の必要性をあまり感じた事はない。ピアノという楽器は原則として持ち運びの不可能な楽器なので、いつも会場に置いてあるピアノを弾くしかない。持ち運びの可能なキーボードなどももちろんなくはないが、そのようなものが必要になる仕事のオファーをぼくは断ることにしている。
表向きは「ぼくはキーボーディストではなくてピアニストですから」などともっともらしい断り方をしているが、実際のところはぼくが自動車ならびに自動車の免許を持っていないからだ。ぼくは常に電車やバスなどで移動しなくてはならない。
もちろんキーボードも持っていない。ボタンが五つ以上あるメカっぽいピアノは弾けないのだ。そういうのはそういうのが得意な人に任せておけば良い。そういう風に断り続けていたら、いつの間にかぼくにはその手のオファーが一切来なくなった。いつか他の仕事も来なくなるんじゃないだろうか。
ぼくから見ていて大変だなと感じるのはベーシストだ。人の身体の大きさほどもあるコントラバスという楽器を常に運ばなくてはならないので、多くのベーシストたちは車での移動を余儀なくされる。まれに電車で移動しているベーシストを見る。
大体の電車移動ベーシストは、自身のコントラバスのケースの下の部分に車輪を取り付けて、それをごろごろと転がして運んでいる。満員電車の中で大きなコントラバスを抱えて乗ってくるベーシストがいた時にぼくは心の中で「乗客のみんな! スペース空けてあげて! あれ高い楽器なんだから、多分! ぎゅうぎゅうに押して壊さないで!」と叫びたくなるが、そういうことを考慮に入れるとベーシストは車移動というのがベストな選択なのだろう。
もしもぼくが誰かから「プロのコントラバス奏者になりたいのですが」と相談を受けたら、「まず最初に車の免許を取ると良いと思うよ。それから車を買うと良いと思う」とアドバイスするだろう。これは割と本気で。
そういえば昔京都に住んでいる時に自転車に乗りながら肩にコントラバスを抱えて移動している若者を見たことがあるが、あれは単なる若気の至りなのだと信じたい。コントラバスは自転車での持ち運びには適さなすぎる。
佐久間さんはもちろんベーシストを今さら志したわけではないだろう。けれど急に自動車の免許を取る、と言い出した。やはりぼくと同じように自動車の免許を持っていないことに対して「ちゃんとした大人としての欠落」を感じたからなのだろうか。
佐久間さんは行動力がめちゃくちゃあるタイプだったので、すぐに免許取得に動いた。
教習所に通ってちまちまと少しずつ学科教習と実際の運転講習を終わらせて、というのは面倒くさいと考えたようで、合宿で短期間で集中して免許を取ることを選んだ。
合宿の場所には静岡の浜名湖を選んだ。理由は「うなぎが食えるから」だ。
確かに浜名湖や浜松周辺は日本でも有数のうなぎの名産地だ。ぼくの知り合いの素晴らしいジャズボーカリストの普段の職業は「浜松のうなぎ屋の女将」であり、その縁から浜松のうなぎをごちそうになったことがある。そのボーカリストの店で出しているお持ち帰り用のうなぎを土産でもらったのだ。
白焼きの状態にしてあったうなぎを、蒲焼き用のタレをつけて焼いても良いし、そのまま再度グリルなどで軽く炙って白焼き状態のままワサビ醤油などで食しても良いとのことだったので、ぼくは白焼きを選択した。
食べた瞬間に驚いた。うなぎの油と旨みが口中に広がった。それは白身魚などの上品な旨みとは異なる、とても力強い旨みだった。うなぎは精がつく、疲労回復にも良いなどと言われたりする根拠が、その味わいの中に全てあった。それは力強い生命の旨みだった。
芳醇で濃厚なうなぎの旨みにワサビ醤油が絶妙に絡み合う。
「どうせめちゃくちゃ美味いんでしょ」と高を括っていたぼくだったが、そう思っていて正解だった。その為にぼくはコンビニでワンカップの日本酒を一つだけ買ってきていたのだ。どうせめちゃくちゃ美味いんだから、やはりここは日本酒の冷やでもちょっとぐらいないとな、と。
極上のうなぎの白焼きを一口、そしてよく冷やした日本酒のワンカップをちびり。
何だよ最高かよ、とぼくは一人でにやにやした。
そんな訳なので浜松のうなぎの美味さが素晴らしいものであることはぼくもわかっていた。
そこを合宿免許の地に選ぶとは、佐久間さん、やるな、と思った。
佐久間さんは本当にうなぎが好きだった。
人からサックスを習っていてもすぐに習うのに飽きてしまい我流でデタラメに吹きちらかしていたのと違って、車の運転は法令を遵守しなくてはならない側面もあるので佐久間さんはしぶしぶながら年下の教官の教えに従っていたようだ。人からものを教わるのが苦手な佐久間さんでもその辺りは妥協せざるをえないみたいだった。
免許合宿では周りが二〇代の若者ばかりだったこともあって誰も友達ができなかったみたいで、佐久間さんは近所のうなぎ屋に毎日通ったそうだ。人の教えに従わなくてはならないストレスと友達がいない寂しさをうなぎで紛らわせていたのだろうか。いや、きっと佐久間さんはそんなことではストレスは感じないし寂しくもならないだろう。単純にうなぎが食べたかったのだ。
大好きなうなぎならば毎食食べても飽きないみたいだった。これはぼくもとてもよくわかる。ぼくは一年間に少なくとも三〇〇食は蕎麦を食べるのだけれど、決して飽きない。朝食と昼食に限定して言えば、一年中蕎麦でもぼくは何の不満もない。
ぼくは佐久間さんと一緒にうなぎを食べたことはないのだが、一緒にうなぎを食べたことのある人たちが佐久間さんのうなぎ好きについて証言してくれる。
うなぎは必ず白焼きから食べるそうだ。前菜らしい。そしてメインのうな重へ。そしてそれが終わると肝吸いで〆る、というのが一連の決まった流れだったそうだ。しかもそれらを全てほとんど噛まずに圧倒的なスピードでたいらげるらしかった。
うーんワイルド、などとはぼくは決して思わない。単純に「もったいないなあ、もっと味わって食べなよ」とも思うが、まあ食べ物は本人の好きに食べるのが一番良い。ぼくはめちゃめちゃ貧乏性なので、ちびちびと食べる。美味しいものは特に。うなぎを呑んじゃいかんだろ、呑んじゃ。
佐久間さんは結局、自動車免許取得の為の合宿を規定の最短の日数で終わらせて帰ってきた。しっかりと自動車の免許を取得することができた。
しかし、その免許を使って自動車を運転しているところを見た人は誰もいない。せっかく取ったのに使わないのかよ。
とすると、やはり佐久間さんはぼくと同じように「良い歳をして車の免許を持ってないなんて人としてどうかしている、ちゃんとしてない感じがする」と思っていた可能性も高い。
その点では免許取得により佐久間さんは「ちゃんと」した。
ぼくは未だに「ちゃんと」してない。
9 うなぎ
今日もうなぎが釣れない。
ふざけんな。
10 さくま
佐久間さんにはお兄さんとお姉さんがいた。
お兄さんは、誰でも名前を知っている日本で一番入るのが難しいと言われる大学を出た後に、誰でも名前を知っている業界最大手の広告代理店で働いた。考え得る中でもトップクラスのエリートコースを歩んでいた人だった。
お姉さんは、やはりほとんどの人が名前を知っているような大学を出た後に学校の先生になった。これもかなりのエリートコースだ。
お兄さんは病気で四〇代の若さで亡くなった。お姉さんは今も存命だ。身近な兄姉がそんな絵に描いたようなエリートコースの人間だというのはどんな気分かぼくにはわからない。
佐久間さんは高卒だ。公立の、入るのが難しくも易しくもない高校を出てから色んな仕事を転々とした。全然絵に描いたようなエリートコースではなかった。
割と長いことやっていたのが鍼灸師だったみたいで、よく「左くま」でも昔取った杵柄を披露していたようだ。
常連のヒロコさんは、ぼくと同い年の女性だが、佐久間さんによく鍼(はり)を打ってもらっていたみたいだ。
どこで打たれるかと言えば、店の奥にあるテーブルである。普段はお客さんの飲食で使われているテーブルが鍼灸の台になるのはどうなのだろうか。というか、そのような医療行為も法律的にどうなのだろうか。ぎりぎりアウトだと思う。
そのテーブルにうつぶせに寝かされてから、スカートあるいはズボンをずるっと剥かれる。なのでパンツは丸見えになるらしいのだが、不思議とそこにエロの空気は漂わなかったという。男性はもちろん、女性も多くの人が佐久間さんのその脱法的医療行為のお世話になっていたのだが、ぼくが話を聞いた限りでは女性の人たちはみな口を揃えて「全然いやらしいとかはなかったよ」と言う。ぼくなどは「脂ぎった中年男性がテーブルの上で下着姿になった妙齢の女性に鍼を打つ」というシチュエーションだけを聞けば、間違いなくエロいことしか考えられなくなるのだが、そうではなかったようだ。
ヒロコさんは初めて佐久間さんに鍼を打ってもらった時に水色のパンツを履いていたらしく「なんだお前水色か」と言われたらしい。二回目にも三回目にもたまたま水色のパンツだったらしく、「お前、いつも水色だな」と言われたそうだ。ヒロコさんも「全然エロくなかったよ」と言う人の一人だが、ぼくからすればヒロコさんのパンツが水色であるということを覚えているというのは佐久間さんがしっかりとヒロコさんのパンツを認識していたということであり、ヒロコさんサイドでは「全然エロくなかった」ということで一向に構わないのだが、佐久間さんサイドからいけば多少なりともエロいことを考えていたということであってほしい。佐久間さんがあまりに聖人君子では、ぼくとしては何か距離を感じてしまうからだ。佐久間さんにも多少なりともエロくあってもらわなくては困る。
鍼灸の料金はいつも要求されなかったようだが、それでは困る、謝礼を払いたい、と言うと何かしらの物品を要求されたようだ。たばことか、酒とか。
ヒロコさんがよく要求されたのはケンタッキーフライドチキンだったようで、鍼を打ってもらった後にヒロコさんがケンタッキーフライドチキンを買って店に戻ると、佐久間さんは美味そうにそれをたいらげたようだ。ヒロコさんはそれを見ながら「この人焼鳥屋さんなのに」と思っていたそうだ。
ヒロコさんが「左くま」に通い始めたのは、近所にあった「アバウト」というバーがきっかけだったらしい。「アバウト」のマスターの磯村さんは佐久間さんの高校時代の同級生であり、佐久間さんもそこにちょくちょく顔を出していた。ヒロコさんもそこに通っており、その縁で佐久間さんと知り合うことになった。初めて佐久間さんに会った時にはまだ佐久間さんは「左くま」を開店する前だったようで、「近々店をやるから遊びに来いよ」と言われたので行くようになったということだ。
「アバウト」マスターの磯村さんのところにはヒロミさんという娘がいた。ヒロミさんには学生の頃から付き合っているヤスオくんという彼氏がいた。趣味は日焼けサロンで、いつでも松崎しげるか番長清原かヤスオくんかというレベルで日焼けしていた。
ヒロミさんとヤスオくんの付き合いが一〇年を越えたあたりで「どうだ、そろそろ結婚でもしたら」という話になった時に一肌脱いだのも佐久間さんだった。
ヤスオくんには父親がいなかった。早くに死別していたそうだ。結婚式の段取りの時点で、片親のヤスオくんに気まずい思いをさせるのを嫌った佐久間さんが、「おれがヤスオの父親ってことでいいじゃねえか」と言い出した。
結局、結婚式から何から全てに親族のような我が物顔でその場に居座り、新郎退場の際にも佐久間さんがヤスオくんの手を取って退場したそうだ。
何だか外国のどこかの部族の結婚式みたいで良いよなあ、とぼくは思う。ぼくはそもそも結婚式だとか葬式だとか、「式」と名のつくものはことごとく嫌いだ。形式を重んじるがあまり、当人たちが置いてけぼりになるように感じるからだ。でも、形式なんて何でも良くて、当人たちが幸せそうにしているならばそれで良いじゃないか。
ヤスオくんは今でも佐久間さんに手を引いてもらった結婚式のことを「一生の思い出です」と言う。
みのもんたか梅宮辰夫のように日焼けした顔で。
11 うなぎ
今日はハゼとニゴイが釣れた。
うなぎは釣れない。
ハゼもニゴイも針を飲んでいないので逃がした。
12 さくま
「うなぎが食いてえなあ」
佐久間さんがぼくにそう言ったのは、有明の病院、通称「有明癌研」だった。
佐久間さんはガンに侵されていた。
食道ガンだった。
以前から佐久間さんはよく店を休んでいた。ぼくは「左くま」のすぐ裏に住むピアノの生徒の池内さんから佐久間さんにはいくつかの持病があることを聞いていた。その内の一つがバセドウ病であり、佐久間さんの特徴の一つのぎょろっとした目は、そのバセドウ病に由来するものだった。
他にも幾つかの持病があり、体調の悪いときには布団から起き上がれないことがあり、その際にはもちろん店を休んだ。
そのような理由で店の定休日以外にも突発的に店が開かない日はあり、客たちはみな「あ、持病の発作が出たんだな、ゆっくり休んでもらうしかないな」と成り行きを見守った。
それがいつからか、突発的な店休日が増え始めた。
池内さんのレッスンが終わると、ぼくは池内さんと一緒によく「左くま」に飲みに行っていたのだが、ぼくがレッスン後に「今日、行きますか」と言うと池内さんが「今日はやってないんだよ」と言うことが増えてきた。「あ、持病のアレですね。仕方ないですね、また今度」と言ってその日は近所のコンビニで缶ビールを買って飲みながらとぼとぼと帰るなどとしていたのだが、ある時にいつものように池内さんのレッスン後に「今日、行きますか」とぼくが言うと「いや、今日も店やってなくて。佐久間さん、多分、ガンなんだわ」と池内さんが言った。
ぼくは驚いて言葉を失った。
それから暫くしても佐久間さんの近況はぼくの耳には入って来なかったのだが、ある日池内さんから「佐久間さんは今有明の病院に入院してる。この間会いに行ったけどだいぶ痩せてたよ」と教えてもらった。
「悪いんですか」とぼくが聞くと、「うん、悪いね。悪い」と池内さんは言った。池内さんがそれ以上の言及を避けたことでぼくは何となく病状を察した。
仕事の空いている日を見つけて、ぼくは佐久間さんの見舞いに訪れることを心に決めた。
その数日後に、ぼくは何故か築地にいた。
これは完全なぼくのミスなのだが、がんセンターと言えば築地であるという勝手な思い込みから、ぼくは築地のがんセンターに佐久間さんを訪れた。もちろん佐久間さんはそこにはいなかった。
受付で佐久間さんの名前を言って受付の女性に「そんな人はうちには入院していません」と言われた時に、ぼくはなぜか「え、佐久間さん逃げ出したか?」と思った。もしくは希望的観測として「良くなったから退院できたのかな?」ということも頭を一瞬かすめたが、その数日前の池内さんの口ぶりからしてそれはまずないだろうとすぐに思い直した。
「いやあ、そんなはずはないんだけどなあ、ここに入院しているはずなんだけど」と言いながら、前日に池内さんから来ていた佐久間さんの入院先に関するメールを携帯電話で見直したときにそこにはっきりと「有明」と書いてあるのを見てぼくは一気に赤面した。
「すすす、すみません……有明の癌研でした……ぼくが間違っていました……」
ぼくがそう謝ると「このクソ忙しい時に余計な仕事増やしやがってこのカスが! おととい来やがれ!」と受付の女性に言われたような気がした。実際には言われていない。ぼくは被害妄想の誇大妄想がひどいので、このようなミスをした時に頭の中にこのような架空の言葉が響く時があるのだ。
実際の受付の女性はもっと親切だった。
築地のがんセンターを後にして、最寄りの築地市場駅へ向かった。傍らに築地の場外市場がちらっと見えた。佐久間さんがふらふらしている時に、ここ築地の場外市場の海苔屋で働いていたって言ってたっけな、と思い出した。
築地市場駅から地下鉄で月島駅へ、そこから更に電車を乗り継いで有明病院の最寄りの有明駅まで向かった。
駅を降りると海の匂いがぼくの鼻先をくすぐった。有明はもう東京湾奥のすぐ近くだ。風は穏やかで日差しもきつくなく、絶好の釣り日和だったが、ぼくは今日は佐久間さんの見舞いに来たのだから釣りは関係ない、と自分に言い聞かせた。
ぼくはどういう顔で佐久間さんに会おうかな、と思っていた。
平常心を装った方が良いのか、心配していることをきちんと伝えた方が良いのか。
電車に乗りながらそういう事に思いを巡らせていたのだが、途中からそういうことを考えているのが面倒くさくなった。多分佐久間さんはそんなつまらない打算はすぐに見抜いてしまうし、まあどう思われたって構わないから自然にいよう、と決めた。
有明病院に足を踏み入れた時に、その清潔さと明るさに拍子抜けした。
ガンという重大な病気に侵された人々がそこに何百人と入院しているとは思えないほどの病院内の明るい雰囲気は、ぼくの現実感を少し希薄にした。
これはぼくの一種の病気なのだが、ぼくはこういう時に限らず誰かの元を訪れる時にあらかじめアポイントを取るのが嫌いだ。
ちょっぴりびっくりさせたい、みたいな気持ちもあるし、もしタイミングが悪ければまた出直せば良い、都合が悪くて会えないのであればそれはまだ「その時」ではなかっただけだ、という気持ちがどこかにある。人からは「そういうのは迷惑だからきちんとアポイントを取った方が良い」と言われることもあるが、そればかりはぼくの性分なので仕方がないのだ。
受付で佐久間さんの名前を伝えると、今度は確かに佐久間さんがそこに入院していることを確認できた。もちろん佐久間さんには何も伝えていなかったので、佐久間さんちょっとぐらいびっくりしてくれるかな、という悪戯心も起きていた。
病室の場所を教えてもらって、エレベーターでそこに向かった。
病室で佐久間さんの名札を確認してベッドに目を向けると、そこに佐久間さんはいた。
13 うなぎ
実はここまでにぼくは一回だけうなぎを釣っているのだ。黙っていて申し訳ない。
何故それを黙っていたかと言えば、うなぎがあまりに小さすぎたからだ。
長さにして三〇センチ程度。太さは、鉛筆ほど細くはないが太めのサインペンほど太くもない。ちょっと太めのボールペンといった所だろうか。
しっかりとペットボトルが倒れたわけでもなく、餌を交換しようと仕掛けを引き上げている時に「あれ、何か重いな」という感覚があって、引き抜いてみたらうなぎがついていたのだ。本来ならばリリースするサイズであることはわかっていたのだが、初めてのうなぎであるし、うなぎを捌(さば)く練習もしたかったので持ち帰った。
うなぎの捌き方は、ぼくの愛読書である『基礎から始める釣魚料理入門』を熟読することである程度はわかっていた。また、それまでにも何度かうなぎによく似たアナゴを捌いた経験があったので、大体は頭に入っていたのだ。
うなぎの体表のぬめりをタワシなどで念入りに落とした後に、まな板の上でうなぎの目打ちをする。
目打ちというのはうなぎやアナゴなどの細長い魚を捌くときには必須の行程で、まな板の上に寝かせたうなぎの目の後ろの辺りを千枚通しで貫いて、そのまままな板に突き刺してうなぎを固定する。ぼくは一度手でずどんと刺した後に、千枚通しの柄の部分を出刃包丁の柄で上からトンカチでがんがんと叩く要領で叩いて更にしっかりと固定する。
固定されたうなぎの背側から包丁を入れてうなぎを開いていく。この時に頭の部分と胴体の部分を決して切り離さないのがポイントだ。切り離してしまうと目打ちの効果がなくなってしまう。きれいに開いたら、まだ頭と胴体は繋げたままで、骨を切り離していく。切り離した骨はそのまま低温の油でじっくりと素揚げにすれば骨煎餅として食べられる。骨まで切り離した後に初めて頭と胴体を切り離して、身から内臓の汚れなどを丁寧に取り除いて、身を適当な長さに切り分ける。これがうなぎの捌き方だ。
余談だが、ぼくは釣って持ち帰った魚を少しでも廃棄するのが嫌なのでこの骨煎餅は度々調理法として用いるのだが、骨煎餅にすると美味い魚ランキングのベスト3は、
・アナゴ
・キス
・タチウオ
である。
アジなどの魚は確かに骨煎餅も美味いのだが、骨が少々頑強すぎていくら念入りに低温油で揚げても骨っぽさが残る。メバル、カサゴなどの根魚も同様だ。それに比べてここに挙げた魚たちの骨煎餅は一切骨っぽさが気にならずに本当に煎餅のようにぽりぽりと食べる事ができる。
味付けは、揚げ終わった後に全体にうっすらぱらぱらと塩を振る程度で良いのだが、この時の塩をちょっと奮発するだけで一気に味わいがリッチになる。奮発すると言っても何千円もするような塩でなくても良い。少量入っていて三〇〇~五〇〇円ぐらいの価格の塩で十分だ。塩の味わいがよくわかる料理であるので、様々な塩を買ってきて食べ比べをするのも面白いかも知れない。
うなぎの骨もきっと骨煎餅にしても美味いはずだ。アナゴの骨煎餅があれだけ美味いのだから。
なおこれも余談だが、刺身に使う醤油に関して、刺身が白身魚などの淡白なものであった場合には、ぼくはヒゲタの「本膳」を推す。醤油のしょっぱさは若干抑えめに、その中に上品な香りとコクがあり、白身魚の旨みをこれでもかと引き出してくれる。お得なのは一升瓶のものだが、日常生活で上等な醤油をそこまで大量に使うことも少ないので、ぼくは真空ボトルのものを勧めたい。四五〇ミリリットルのボトルで五〇〇円しないぐらいだ。醤油が空気に触れない仕組みになっているので多少の日にちが経っても醤油が劣化することはほとんどないので非常に使いやすい。これだけで刺身の味わいは相当に変わる。
うなぎを釣って捌いたのだが、ぼくはまだうなぎを食べていない。
きちんとした大きさのうなぎが釣れた時に一緒に食べようと思って、冷凍保存をしている。ぼくの家の冷凍庫には、うなぎが眠っている。
魚の保存法に関してはぼくもこれまでにあれこれと試行錯誤を繰り返してきたのだが、今は一つの方法に落ち着いている。切り身の状態になったものを綺麗に水洗いした後に水気を取り、それをキッチンペーパーで包んでから更にその上からサランラップでしっかりと巻いて空気に触れないようにする。そしてそれらのキッチンペーパーとサランラップの合わせ技で包んだものを、更にジップロックの袋の中に入れて空気をよく抜いて保存する、といったものだ。
この方法は冷凍保存にももちろんなのだが、冷蔵保存でも抜群の効果を発揮する。
魚は肉と同様に熟成により旨みが増す。釣りたての魚が美味いというのはある側面では正解であり、ある側面では不正解である。身の歯ごたえという点では釣りたての魚にかなうものはないが、身の旨みという観点から見れば釣ってから即座に血抜きや神経〆などの処置を行った後に数日間冷蔵庫の中で熟成させたものの方が圧倒的に美味い。
その熟成の際に使用するのがこの「キッチンペーパー&サランラップ&ジップロック保存法」である。この状態にした魚を冷蔵庫の中で熟成させる。この方法を用いると、魚に臭みがほとんどつかない。熟成期間は魚の種類や〆方にもよるが、四~五日がベストだとぼくは感じている。
釣った魚を刺身で食べたい場合にはこの方法が良い。
冷凍庫の中でキッチンペーパーとサランラップとジップロックに保存された小うなぎが大うなぎの登場を待っているのだが、大うなぎは未だにぼくの所にやってこない。
いつになったらやってくるんだ。
14 さくま
「佐久間さん」
とぼくが声をかけると
「おお、福島くん」と佐久間さんはぼくに気付いた。
アポなしで来たことには多少は驚いてくれたみたいだったが、あくまでも想定の範囲内といったところだろうか。
少ししんどそうに、よいしょと起き上がると「ちょっと出るか」とぼくを外に誘った。
起き上がった佐久間さんを見て、あまりに痩せているのでびっくりした。
ぼくの知っている佐久間さんからは、二まわりほど痩せていた。話を聞けば二〇キロは痩せたそうだ。食道ガンは、ものを食べられなくなるのでどうしても痩せていく。
「随分スリムで男前になりましたね」とぼくが言うと、
「おかげで看護士にモテてモテて困る」と佐久間さんは言った。
「きれいな看護士さんばっかりですからね、ハーレムじゃないですか」と軽口を叩いた。
「まあな、おれぐらいになるとな」と佐久間さんは答えた。
「たまたま近くにいたんで、ちょっと寄ってみました」とぼくは言った。もちろん嘘だ。有明に用事なんてない。わざわざ佐久間さんに会いに来たのだ。一度は場所を築地と間違えながら。けれど佐久間さんのことが心配で、ひょっとしたら今会っておかないと一生会えないんじゃないか、だから仕事も無理矢理空けて会いに来たなんて正直な所を伝えるのはとてもじゃないけれど気恥ずかしくて言える訳はなかった。
「びっくりしました、きれいな所なんですね、有明病院って」と言うと
「そうだよなあ、おれみたいな死に損ないがどんな所に押し込められるのかと思ったらこんな小ぎれいなところでよ、変な感じだなあ」と佐久間さんは答えた。
「下に行こう」と佐久間さんに言われて、ぼくたちは一階のロビーに向かった。
一階にはお洒落なコーヒーショップがあり、これもまた病院らしくないなあなどと思っていたのだが、佐久間さんはそこでぼくに「何でも好きなもの頼め」と言ったのでぼくはホットコーヒーを頼んだ。佐久間さんはナントカフラペチーノみたいな長ったらしい名前の甘そうなやつを頼んでいた。コーヒーショップは佐久間さんがおごってくれた。
そこで買ったコーヒーを持って、すぐ近くの屋外のテラスに向かった。「ここがおれのお気に入りの場所なんだ」と佐久間さんは言った。
「最近どうだ、仕事は」と聞かれたので
「三歩進んで三歩下がる、みたいな感じですかね。レッスンは相変わらずトンチンカンなことばっかり言ってると思いますし、演奏の方も、毎日練習してるんですけど、本番はうまくいったりいかなかったり」と言うと、
「でも、それで良いんだろ? それが楽しいんだろ?」と聞かれたので、「はい」と答えた。
「じゃあそれで良いんだよ。誰から何言われたって関係ねえんだから。自分が良いと思うこと、楽しいと思うことだけをひたすらやってりゃ良いんだよ。それが何なのか、もう自分でしっかり見えてるってのは幸せなことなんだ。おれは好きだぜ、福島くんの弾くピアノは。何だか生意気でよ」と佐久間さんは言った。佐久間さんはそれまでに何度かぼくのピアノを聴きに来てくれたことがあった。
「福島くんはな、何となくおれと似てるところがあるからな。おれもそうだよ、うまくいくこともうまくいかねえことも、全部自分でやらなきゃ気が済まない。人から何か言われるのも苦手だしな」と佐久間さんが言った時に「知ってる、アンタぐらい自分勝手にやっている人も珍しいよ」と言いそうになったが黙っておいた。
佐久間さんはそれからぽつぽつと自分のことを話し始めた。さっき言ったような佐久間さんのお兄さんとお姉さんの話や、店を始める前の話なんかを。
話をしながら佐久間さんはテラスの植え込みの辺りにパンを小さくちぎって投げていた。そのパンを、雀たちが拾って食べに来ていた。
「おれが手なずけてるんだ。ここの鳥たちはおれがあげる餌じゃねえと食わねえんだ。嘘だと思ったら福島くん、この餌投げてみな」と言うのでぼくもやってみた。
確かにぼくが投げた餌を鳥たちは食べなかった。「おお、ほんとだ、佐久間さんすごいですね!」とぼくが言ったのも束の間、鳥たちはぼくが投げたパンを食べ始めたので少々気まずい空気が流れた。
「あれ、食べてますね……」
「うん、食べてるな。福島くんもなかなかやるな。いや、これはおれの餌のチョイスが良いんだな」と言って佐久間さんは笑った。
佐久間さんは多分、困った人やおなかを空かせている人を見ると本当に放っておけなかったのだ。それが例えば鳥であっても。佐久間さんは焼鳥屋さんなのだが。
パンをちぎって投げる佐久間さんを見ながら、「あ、この人本当に放っておけないんだ」とぼくは思った。
「たばこが吸いてえなあ」と佐久間さんは言った。
「そりゃ無理でしょう、ここ病院なんだから。ていうか佐久間さん、食道ガンなんだからたばこは無理ですよ。もう諦めないと」
「そうなんだけどよ、やっぱり今何がつらいってたばこが吸えねえのがつらいなあ」
「良い機会ですよ、禁煙しましょうよ」
「じゃあ福島くんも禁煙するのか」
「え、ぼくはイヤです。ぼくもたばこ好きなんで」
「くそう、良いなあ、たばこ吸えて」
ぼくは今でもたばこをやめていない。この嫌煙ブーム真っ只中のご時世でそろそろ喫煙生活も潮時かなとは思っているのだが、今のところぼくは今でもたばこを吸っている。
「食べ物は、どうなんですか?」とぼくが聞くと、
「今は食えないんだ。ガンのせいで食道が狭くなってて。何か食べたら戻しちまう。ずっと点滴だよ」と佐久間さんは答えた。
「でもな、」と言ってから顔が一瞬ほころんだ。
「回復したら、うなぎが食いてえなあ」と佐久間さんは嬉しそうに言った。ああ、佐久間さん本当にうなぎが好きだなあ、とぼくは思った。
「食えますよ。絶対食える。佐久間さん、良くなりますから。絶対食えますって」と、何の根拠もなくぼくは言った。
テラスで一時間以上二人で話していただろうか。ぼくはその辺りで「じゃ、ぼくはまたこの後仕事ありますんで」と言って別れようとした。もちろん嘘だ。仕事なんてない。けれど、それ以上そこで佐久間さんと話していると、必要以上に感傷的になってしまうような気がしたのだ。
帰り際に、ぼくは佐久間さんに封筒を渡した。
「何だこれは」と聞かれたので、
「金です。五千円だけですけど」と言うと、佐久間さんはむっとした。
「見舞金か? そんなもんいらねえよ。受け取れねえ」と封筒をぼくに突き返した。
「見舞金じゃないんです、祝い金の前払いです」と言うと、佐久間さんは「なんだそれは」と言った。
ぼくはかなり恥ずかしいのを我慢して、少し強めの語気で言った。
「良くなったら、またぼくの演奏を見に来てください。佐久間さんが回復する頃までには、見違えるぐらいにすごいピアニストになっときますから。で、その時のライブチャージ、お祝いでおごりたいんです。その五千円です」ぼくがそう言うと、佐久間さんは「仕方ねえなあ」というような顔をして「わかった、じゃあもらっといてやる」と言った。
困ってる人を見たら放っておけない佐久間さんは、逆に人から何かされるのを極端に苦手にしていたのは知っていたので、そうでもしないと受け取ってもらえないのはわかっていた。
そしてまた、佐久間さんに回復してもらってまたぼくの演奏を見てもらいたいと思っていたのは、ぼくの偽らざる本心だった。そういうぼくの気持ちを佐久間さんは決して無碍にはしない。それもわかっていた。
「おれが回復して見に行くまで練習サボるんじゃねえぞ」
佐久間さんはそう言ってぼくはそれに頷いたが、ぼくは時折練習をサボって釣りに行くこともある。佐久間さん、ごめん、釣りだけはやめられないんだよ。それ以外はずっと練習してるから許してください。
もう佐久間さんに直接演奏を見てもらうことは叶わないのだけれど。
有明の病院を後にして、ぼくはちょっと呆けていた。足があまり地につかない感じがした。もっとヘロヘロの佐久間さんを想像しながら病院に向かっていたので、想像していたよりも元気そうな佐久間さんに少し安心したのと、それでも確実に佐久間さんに忍び寄って来ている「死」の影、それを認めたくないという気持ちの間でぼくは少しぼけっとしていた。
そのまま家に帰る気になれなかったので、有明駅からモノレールのゆりかもめに乗って終点の新橋駅まで行ってから一杯だけ飲んで帰ることにした。
無人運転のモノレールであるゆりかもめの進行方向の最前列の席は、何となく自分でゆりかもめを運転しているような気になるので気分が良い。ぼくは空いていると必ずその席に座るのだが、その日もその席が空いていたのでそこに座った。ほどなくして小学生の男の子がぼくの横に来て、やはり自分が運転しているような気になって「おー! すごいー!」などと興奮していた。ぼくの方をちらちら見ては「そこの特等席、代わってくれないかなあ」という視線を投げかけていたが、代わってなどやらない。ぼくだって君と同じかそれ以上にこの席が好きなのだ。空いてない時は諦めなさい。
新橋駅に着いた時には空はうっすらと暗くなり始めていて、仕事を終えたサラリーマンたちが「さて、今日はどこで一杯やるかな」と店を物色していた。
ぼくは目的もなくぶらぶらと歩き、目についた安そうな店に適当に入った。地下にある、中国人夫婦が営む居酒屋だった。
気立ての良さそうな美人の奥さんが「いらっしゃいませ!」と元気な声で迎えてくれて、寡黙な主人が奥で淡々と料理を作るというよくあるタイプの居酒屋かなと思いきや、入店後すぐに異変に気付いた。
奥さんが一切働かない。
奥さんの仕事は元気良く「いらっしゃいませ!」と言うだけであり、それ以外は基本的に店の隅に座って携帯電話をいじるか、たまにたばこを吸いに外に出る、という行動がルーティンとなっていた。
どんなに店が忙しくなっても、主人がひたすらにオーダーを取り、ドリンクを作り、料理を作り、汚れた食器やグラスを洗う。奥さんはごくまれに食器を洗ったりドリンクを作ったりすることはあったが、すぐに飽きるようでまた定位置の携帯電話いじり席に戻る。
店に客が多くなり店主の手がてんてこまいになっても奥さんは動じない。ひたすらに携帯電話をいじる。「いらっしゃいませ!」は元気良く言う。たまに客と雑談をする。店主は更に死にそうな顔になりながらフル回転でオーダーを捌く。
「おい、奥さん、手伝えよ!」と言いそうになったが、ここにはここのやり方があるかも知れないので放っておこう、と思った。
その時にぼくが頼んだ鶏の唐揚げの皿が食べ終わって空になっていたのだが、そこに店主が揚げ立ての唐揚げを二、三個、ごろんと足した。ん? 頼んでないけど? という顔をぼくがしていると、寡黙な店主は「サービス」とぶっきらぼうに言った。
しびれるぜ。
これが自分勝手な嫁に翻弄される寡黙な男のサービスだぜ、とぼくは少し感動した。何となく悪い気がしたので、追加でギョーザを注文した。
「食いたいだけ腹一杯食えよ」という佐久間さんのことを思い出した。
店を出るときには辺りはすっかり暗くなっていた。
ぼくはさっきよりしっかりと地面を踏みしめていた。
(「ダウン・バイ・ザ・リバーサイド(3)」に続く)
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