運命論(1)
・運命に従うか、反抗するか
突然だが、次の発言から議論を始めたいと思う。
「自分の人生行路が、実は細かいところまで完璧に決まっているという信じられないような枠の中に、まず自分を置いてみて、そこからどう自由になるのかという課題と向き合って頂きたい」
武道家の甲野善紀氏(以下、甲野氏)の言葉である。甲野氏は「人生は完全に決まっていて、同時に自由である」という直観的確信を20代はじめに得、爾来その理路を理屈ではなく体験から証明しようと日々歩んでこられたらしい。
私はといえば、「未来の予感は感じ取ることが出来る」という直観に日々苛まれており、しかもその予感が大概、のっぴきならない段階で到来し、そこから逃げることを繰り返してきたとも言える人生を生きてきた。例えば、大学進学が決まって、その準備を始める時点で、私は大学を辞めるであろう、という謎めいた直観がもう一人の自分からもたらされたり(実際何度も辞めようとしたが、学費の都合上、両親に引け目を感じて実行できなかったが)、就職が決まり、内定式を終えた日に、私はこの会社に長くはいないだろうと確信していたり(実際数年後に退職した)、といった具合である。
このような直観を抱くことが世間一般的に正常なのかどうかは私には判断がつかないが、最近心理学を勉強し始めた上で改めて考えてみると、私は「予め逃げ道を確保した上でないと安心して物事に取り組めない(取り組みたくない)」のではいないか、という一つの結論に達した。ある意味で言えばそれは不条理な選択を迫られたことに対する腹いせであり、別の意味で言えば選択に対する責任回避である。どちらがより真実なのかは今の私には判断がつかないが、双方に共通する含意としては「消極的選択」ということがいえるだろう。昨今の世相で言えば、「消極的選択」は「積極的」でなく、「自由意志」に基づいておらず、選択に対する責任(「自己責任」)を巧妙に回避しているという点で、褒められたものではないだろう。
しかし私はこうも思うのである。「選択」はそれほど「自由」に行われているのか、と。またそれと同時にこうも思う。明らかに利益に反した選択をする個人も存在するだろう、と。この客観性と主観性の混同、主客が入り混じった世界。それが私の「決断」を躊躇させる。客観的正しさには運命的確信は望めず、主観的正しさには合理的確信が期待出来ない。いったい私は何を望んでいるのだろう。
P.S. 私がわたしであり続けるというのは稀有なことである、という言明はおそらく真実である。その含意をもう少し見つめていたい。