10本論文について
修士課程の大学院生だった頃,指導教員の授業を取ると「10本論文」という課題をやらされた.自分の好きな分野で論文を10本読み,個々の論文の関係をまとめろという課題である.論文の関係というのは,例えば「著者が同じ」「研究室が同じ」「引用関係にある」「後続の研究である」などである.全ての論文を読んで,こういった関係をノードとエッジで作図し,プレゼンするというのが課題である.作ってみると木構造になりがちで,なかなか循環しない.1つ中心となる研究があり,その論文を参考にしながら分野の体系が広がっていくことがわかる.
当時私は本当にビチョビチョになりながら10本読んで報告した.今になってみると論文を10本読む程度になぜあんなに苦労したのか謎である.学部から修士に進むにあたって専門領域を変えたので(応用物理→情報系),単純に慣れてなかったのだろうと思う.個々の論文を深く読みすぎたり,研究のコントリビューションがどこなのか探すのに大変に手間取ったりした.慣れるとアブストとイントロと章立てと図を見て全体を流し読みすれば大体の概要は掴めるようになる.量をこなして「もうこんな苦労したくないんだけど」と祈って漸くできるようになったことなので,そういう意味でも10本論文は有用だったのかもしれない.
面白かったのが,10本論文をこなすと分野の”流れ”みたいなものを理解できる点である.ある一本の研究がきっかけとなって中規模な分野を形成していたり,ある人物が中心人物になって分野の潮流を作っていたり,実は民間企業のある部署がコンセプトを提唱していたりする.そしてその”流れ”に乗っかるようにして多くの人がコントリビューションしている.
こういった分野の潮流があるというのは自然な話であり,考えてみれば当たり前であるが,残念なことに私みたいにわかっていない人もいるのである.当時私は,個々の論文がそれだけで完結していて,一つのストーリーになっていると薄っすら思っていた.実はそうではなく,ある研究の流れがあり,個々の論文はそのストーリーの一片である側面が強いのである.それに気付けたのでよかった.
メタに考えると,10本論文を実施すると「分野に流れがある」がわかる.これがわかると研究以外の様々なものに対して「突拍子もなく出てきたのではなく流れがある」ということが理解できて,世の中の見通しが良くなる.当時の僕は本当のクソバカだったので,この大局的な集団の流れみたいなものが理解できていなかった.したがって,この課題は大いに役立った.音楽でも漫画でも小説でも,全ての作品に”関係”があって,主要な作品があって,流れがある.それがわかったので嬉しかった.
この「流れがある」という気付きは,おそらく10本論を通じて伝えたかったことなのだろうけど,「そんな話は10本論文をやらなくても先生が説明すればいいじゃん」と思った.これに関して,指導教員は「答えがある参考書だと身にならないことってあるでしょ?説明すればいいというものではないんだよ」と言っていた.つまり,答えを言わずに答えに到達させるというのが一種の教育であるということだ.私は何かを教えるときは何度も説明して理解させるタイプなので,「こいつ俺がいなくなってもちゃんと学習を続けられるのかな」と心配になることがたまにある.だけど,答えを教えるのではなく,答えの探す態度を教えれば,巣立って行ってもなんとかなるだろう.
今でも個人的に10本論文を実施する.当然だが,これは研究においても便利な道具である.