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#42『フィッシュマンズ』-魂を揺さぶる普通の詞(ことば)-

■番組概要
今回のテーマは、映画『フィッシュマンズ』について。伝説のバンド、フィッシュマンズの真実に迫った2021年のドキュメンタリー映画を題材に、作品が持つ普遍性といった観点から語りました。

■語り手
大熊弘樹

■キーワード

佐藤伸治/「男たちの別れ」/RYM/ロングシーズン/トランス/享楽/サイケデリックミュージック/LSD/詞先/マックスプランク研究所/井筒俊彦『言語と呪術』

〜音声版はこちら↓〜


映画『フィッシュマンズ』

今回扱うコンテンツは映画『フィッシュマンズ』についてです。
この映画は孤高のバンド、フィッシュマンズの真実に迫ったドキュメンタリー映画となります。
2021年の夏に公開され話題を呼び、今年に入ってから各サブスクリプションサイトで配信が開始され(サイト内課金)、再び話題性を獲得している注目作です。

     映画『フィッシュマンズ』(2021年/日本)より

音楽や映像はもちろん、話の構成が大変素晴らしく、一般のドキュメンタリー映画の枠を超え、芸術の普遍性をも指し示す大作映画となっています。

フィッシュマンズ 再評価の流れ

フィッシュマンズは1987年に結成された日本のバンド。実はこの映画が公開される3、4年ほど前(2018年前後)から急速に海外での評価が高まっており、現在異様とも言えるフィッシュマンズ再評価、再ブームの流れの只中にあります。
アメリカ最大手の音楽レビューサイトRYMでは、『男たちの別れ』というライブアルバムがオールタイムベストで17位にランクイン(ライブアルバムとしては1位)。RadioheadやPink Floyd、King Crimsonといった名だたるアーティストの名盤中の名盤の中にフィッシュマンズのアルバムが位置しているという状況です。

なぜ海外においてこれほどまでに評価されたのか。その答えに関しては、先日Twitter上で話題になった『フィッシュマンズはどのようにして海外で人気になったのか』という記事の中で紹介されています。

Peterさんという方の書いたその記事の中では、“mu”という海外の音楽板の関わりや、RedditというSNSの関係などがあげられ、一種の謎解きのように現在までの流れがまとめられています。大変素晴らしい記事でしたので、より詳しい内容に関してはぜひ記事をご覧になっていただきたいと思います。

「芸術」としてのフィッシュマンズ音楽

今回私が語ろうと思うのは、より抽象的な部分です。
これほどまでに国境や時代を超えて人々の心に残る作品が、一体どのようにして生み出されたのか、という制作の核心にあたるテーマを考察していきます。

一般に、時代を超えたり国を超えて受容される音楽には、普遍的なテーマや真理が内在されていると考えることができます。その意味ではフィッシュマンズの音楽、とりわけ佐藤伸治の作る音楽には人間の普遍的なニーズに応える何かがビルトインされているはずなのです。
佐藤伸治、フィッシュマンズの楽曲のほぼすべての作詞作曲を手がけている、バンドのまごうことなき中心人物です。冒頭に紹介したドキュメンタリー映画もこの佐藤伸治にフォーカスした構成がなされています。
さまざまな人から畏怖の念を持って語られる、狂気の才能を持った天才アーティストです。

その佐藤伸治の音楽について、上述した普遍性といった観点から語っていこうと思います。

変性意識へと誘う音楽

まず最初のキーワードはトランスです。
これは周知のことかもしれませんが佐藤伸治の作る音楽がトランス感覚を誘発する音楽だということが重要な点です。

先ほど紹介したアメリカのレビューサイトRYMや、欧米でのレコードの売り上げをみると、海外において、最も評価されているフィッシュマンズの楽曲は『Long season(ロングシーズン)』という曲です。

                                                  『Long Season』(1996)

ロングシーズンは一曲35分ほどある曲で、佐藤伸治いわく、終わらない曲、通常の時間感覚とは違う時間感覚を表現した曲ということになります。どのようなジャンルにも属さないような不思議な音楽で、海外ではこの大作をPink Floydと比較するファンも多くいます。実験的であり先進的。それでいながら懐かしさを感じさせる側面も併せ持つこの楽曲。聴いていると時間や空間を超えてトリップするかのような感覚に誘われます。
トランスというのは、現実感が喪失したり、時間感覚が狂ったり、自分の意思によらずに自動的な運動が生じたりするなど、催眠によっても誘発される宗教的感情的なものと紹介されます。ドラッグカルチャーの文脈などでも語られるキーワードです。
その意味で言うと、このロングシーズンはトランス感覚そのものをテーマにしていると言っても良いのだと思います。

「感覚の解放」というモチーフ

トランス感覚そのものをテーマにしていると言えばやはりサイケデリックミュージック 。LSDに代表されるような幻覚剤の影響下にある時の感覚の再現を目指したもので、1960年代、ヒッピーに象徴されるドラッグムーブメントの時代を代表する音楽です。
この時代には「感覚の解放」をテーマに音楽、美術、さまざまなジャンルで多様な表現が生み出されました。
ちなみにLSDは国レベルで規制が入るのが1970年代に入ってからなので、それまではどの国でも比較的自由に使えたという背景があります。
ビートルズやPink Floyd、ローリングストーンズという超大物バンドもサイケデリックミュージック とは無関係ではありません。

ベトナム戦争が終わった後から、規制が厳しくなり、それ以降サイケデリックミュージック がメインストリームに返り咲くことはなくなったものの、「感覚の解放」「感覚の拡張」といったモチーフ自体は地下水脈のようにして音楽、美術、コンピュータカルチャーなどで受け継がれていきました。ナチュラルハイやドラッグレスハイという今でも使われるキーワードは、ドラッグなきあとアーティストがトランスを求めて表現活動を続けた時代の名残でもあります。

長く書いてきましたが、フィッシュマンズの音楽、中でもロングシーズンに関して言えば、上記のような文脈によりそもそも欧米に受け入れられる土壌があったと考えられるのです。

またトランスというは人間が無意識下で求めてしまう享楽の一種です。そのような理由もあり、さまざまな国の人に浸透しやすかったのではないかと考えられます。

曲先ではなく詞先

ここからはさらに抽象的な語りになるかもしれません。映画内で示されるもうひとつの重要な要素についてです。

映画の中盤くらいだったでしょうか。佐藤伸治の作る音楽が詞先であるということに何人かのアーティストが驚いているという一幕が描かれます。

佐藤伸治について語るUAー映画『フィッシュマンズ』(2021年/日本)より

詞先、つまり作詞の作業が先にあって、その後で曲調、メロディが決まっていくということです。
フィッシュマンズの音楽は曲調、メロディが大変独特なので、てっきり曲が先だと思ってしまうのですが、言葉が先ということなのです。
詞先のアーティストはもちろんたくさんいます。aiko、BUMP OF CHICKEN、槇原敬之、チャットモンチーなど、あげればキリがありません。
ですがそのどれもフィッシュマンズの音楽が詞先であるということほどの意外性はありません。
これの何がそれほど重要に見えるのでしょう。

言語に内包されたメロディ

先程これほどまでに全世界全年代に広がる音楽というものは、なにか人間の普遍的なニーズに応えるものが宿っているのではないかという話をしました。その意味で言うと、佐藤伸治のつくる音楽が国を超えて広がっていく理由のひとつとして、言葉の中から音を抽出するといった制作プロセスが関係しているのではないでしょうか。
「歌詞で言い尽くせないことを音楽で表現する」といった佐藤伸治のインタビューが残っていますが、これは詞と曲を分けて考えている場合には出てこない発言です。

詞先と言いましたが、厳密には言葉があってその後で曲というよりは、それは同時に生まれたものではないかと想像できるのです。
そして、これがなぜ人間の普遍的なニーズにつながるのでしょうか。

歌う現生人類-進化生物学の知見から-

有名な話ではありますが、人間はもともと言葉と歌を分けて使ってはいなかったという話があります。分けて使っていなかったという意味は、人間が今のような言語を喋る以前は歌を歌って生活していたということなのです。
スティーブン・ミズン著『歌うネアンデルタール』などで展開されたこの学説は、今から10年ほど前ドイツのマックスプランク研究所の調査によって実証されました。

 『歌うネアンデルタール』スティーブン・ミズン(2006)

荒い説明にはなりますが、約4万年ほど前、歌を歌うための遺伝子の一部周辺に故障が生じ、歌の能力が限定された結果、それによって生じたコミュニケーションの穴を言語を使って埋め合わせている、というような話です。そこから言葉と歌が分離していったということなのです。つまりもともと言葉と歌は分離していなかった。

FOXP2遺伝子

この意味は感覚的には誰もがわかるものかと思います。
今でも声音や、声色といった言葉がありますが、言葉と歌を一緒に考えるというのはコミュニケーションにおいても馴染みのあるものです。
例えば「お前はバカだな」という場合、それをどういった声のトーンやリズムで言うのかによって相手に伝わる意味合いというのは変わってきます。強い口調で言う場合は軽蔑を示すことにつながり、逆に優しい口調でいう場合はそのことにより愛情を表現できたりもします。
このように言葉の表面的な情報よりもそれをどういう曲調、リズムで言うかの方が重要なのです。
言葉の背後にある曲調と合わせて受け取ることで、メッセージはより強いものとなります。それは先述したように人間の遺伝子的な基盤と関係しているからとも言えるのではないでしょうか。

心を抉る淡白な歌詞

ここで佐藤伸治の作る詞に注目すると、佐藤伸治の作る詞は必ずしも強いメッセージ性があるわけではありません。むしろリテラルに読むだけだと、淡白に感じるものも少なくないです。
しかし、その淡白な言葉を曲調と合わせて聴いた時、それはまるで自分だけに語られているかのような強いメッセージに感じるのです。
これはおそらく私の個人的な感想というよりは、フィッシュマンズを聴いている人であれば多くの人が共感する部分かと思います。
フィッシュマンズは熱狂的なファンが多いことでも知られていますが、「この歌は自分にだけ向けられている」「この感覚は自分だけにしかわからない」そのような感想を抱くファンは少なくないはずです。
それはやはり情報伝達以上のものを受け取るからであり、佐藤伸治の作る音楽が、言葉と曲が分離していないことによって生じる力の伝達だからなのでしょう。
情報の伝達ではなく力の伝達だと考えれば、それは国境を超えて影響力を持つ意味もわかります。

言葉というのは昔より恐れられていたもので、かつては世界を変える力があると思われていました。
様々な宗教、文化において、言葉を畏れる感覚や言葉を力として受け取る感覚というのは語り継がれてきています。

このことは人間の奥深いところにある、遺伝子レベルで刷り込まれた感受性と無関係ではないのでしょう。
そして佐藤伸治の音楽はそういった場所に触れた表現になっている可能性が高いのです。

「時代」ではなく「音楽」と対峙する

映画の中では佐藤伸治がどんどん孤独になり、最後には亡くなってしまうというところまでが描かれます。
上述した感受性というのも、現代においては誰しもが持ち合わせるものではないのかもしれません。事実、映画を観る限りはですが、佐藤伸治のやろうとしていたことは、バンドのメンバー内でも共有はされていませんでした。
その結果どんどんメンバーが脱退していくという事態を引き起こします。
映画のハイライトシーンとなる1998年12月28日に赤坂BLITZで行なわれたフィッシュマンズのライブ、その前のカットで佐藤伸治が残したメモをお母さんが読み上げるという印象的な場面があります。そこでは「音楽の未来のために、ただ美しいライブを」というメッセージが残されていました。

また「自分のつくる音楽が多くの人に理解されるとは思っていない。でも、聴いた人の人生を変えてしまうくらいの音楽をつくっているつもりだ」という佐藤伸治の言葉がフィッシュマンズのマネージャーである、植田亜希子さんの口からも語られます。
映画内で描かれている通り、フィッシュマンズはある時期から売れるということを優先順位の一番目からは外して制作をするようになっていたのです。
時代に迎合しない作品をつくることによって、逆に時代を超えて評価される作品になる、ということは芸術あるあるではありますが、映画という形で一気に見せられると、何かとても大きなものを受け取ったような気もして、観ている間は心中穏やかではいられませんでした。

いずれにせよ、フィッシュマンズの音楽において、
●トランス感覚を誘発する
●言葉に重きを置くからこそ、異次元の曲調が生み出せるという逆説

この2つの要素は、フィッシュマンズを語る上では欠かせないものだと個人的には考えます。

長くなってしまいましたが、映画『フィッシュマンズ』、大変おすすめの一本です。

詳しくは語りませんが、映画自体が佐藤伸治の作る音楽に似た制作スタンスで作られているようにも感じました。そのようなことも含めてぜひご体感いただければと思います。

              語り手・大熊弘樹




■参照コンテンツ

フィッシュマンズはどのように海外で人気になったか(前編

フィッシュマンズはどのように海外で人気になったか(後編)

■出演者:
大熊弘樹(https://twitter.com/hirokiguma)


■番組の感想は fukurouradio@gmail.com

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