梟訳今鏡(11)すべらぎの中 巻二 春の調べ、八重の潮路
春の調べ
仁和寺の女院(待賢門院)の所生でいらっしゃる第一の皇子(崇徳)は帝位を去られて後、「新院」と申し上げました。
後に讃岐に地にいらっしゃいましたので、讃岐の天皇とも申し上げているそうですね。
御母君である女院は璋子様と申しまして、大納言公実様の第三女であらせられます。
この璋子様は鳥羽院がまだご在位中でいらっしゃった頃に、白河院の御娘君という体で入内なさいました。
さて、讃岐の天皇は元永2年5年28日にお産まれになられまして、保安4年1月28日に帝位につかれました。それから大治4年、御年11歳でご元服なさいました。
この天皇の御世に忠通様が御娘君の聖子様を女御として入内させましてね、その後この聖子様は中宮となられました。皇嘉門院と申しますのはこの方のことですよ。
天皇は時の摂政の御娘君を后に、白河院を祖父、鳥羽院を父とされていて、そんな天皇の御母君である璋子様も並びなくておいででした。
ですので、璋子様の御兄弟にあたられる侍従の中納言実隆様、左衛門督通季様、右衛門督実行様、左兵衛督実能様などと申される方々もみなこの天皇の叔父でいらっしゃったわけですから、この方々は直衣での参内も許され、いつも直衣姿で出仕されていたんです。また、この方々の若君たちも近衛の中将や少将として朝夕天皇のもとにさぶらわれていらっしゃいました。
この天皇のご意向は、廃れてしまった文化をお継ぎになられたり、過去のしきたりを再興されようとなさったりといったものでした。
そうそう、天皇は幼少から和歌をお好みになられていらっしゃいましてね。いつもおそばにさぶらわれる人々に隠し題で歌を詠ませられたり、紙ろうそくに火が灯っている内に歌を詠めとか、金椀を打って、その音が響いている間に歌を詠めとか仰せられたりなさっていたこともあったんですよ。
天皇は普段からよく歌会もひらいておられたそうです。そんな中で「こうも身内での会ばかりではおもしろくないから」ということで花の宴をひらかれたことがありまして、歌題は「松の遥かなる齢を契る」と設定されました。
この宴には関白の忠通様をはじめ、束帯姿の公卿たちが参加されました。宴ではまず管弦の催しがございまして、忠通様が琴を、当時右大臣であられた有仁様が琵琶をお弾きになられました。
また、中院大納言雅定様は笙を、右衛門佐季兼様にいたってはこのとき急遽昇殿を許されて、篳篥を奏でられました。拍子取りは中御門大納言宗忠様、笛は成通様や実衡《さねひら》様といった方々だったかと思います。あと中将の季成様は和琴などを弾かれたのでしたかね。
さて、この宴での歌序は堀河大納言師頼様がお書きになりました。読み上げ役の講師は左大弁の実光様が務められました。天皇の御製を読み上げる講師はどなたでしたかね、忘れてしまいました。
この天皇がお歌を詠まれることは常のことでありましたが、この宴でのものは殊に素敵で、なかなかないような見事なお歌を多く詠まれていらしたんですよ。
「遠くの山の花をたづぬ」という題で
たづねつる 花のあたりに なりにけり
にほふにしるし 春のやま風
なんてお読みになられたのは、末世の中でそうそうあるものじゃないと人々は褒め申し上げたものでしたよ。
そういえば、この天皇がまだ幼くいらっしゃいました頃に、
ここをこそ 雲のうへとは おもひつれ
たかくも月の 澄みのぼるかな
というお歌をお詠みになられてから、こうした素敵なお歌ばかりがたくさん残っているんですよ。こういったことは世間でもかなり評判になっていたことでしたから、私の耳にも自然と入ってきたことなんです。
さて、天承2年3月でしたかね、天皇が臨時で音楽の会をひらかれたことがございました。この会は不定期的に行われるお祭りでの演奏の試演というかたちで行われたんですよ。
その折、清涼殿の御簾をおろして、母屋の庇のさらに外側にある孫庇というとろに御椅子を置いて、そこへ御直衣を着用された天皇が座っておられました。
それから北の廊の方にある立て蔀を取りのけて御簾をかけ、そこへ中宮様(聖子)付きの女房たちが御簾からさまざまな装束を出だし衣にしていらっしゃったんです。二間の方には中宮様もおいででしたよ。
左楽、右楽の舞人たちは華やかな舞いの装束に身をつつんで、紫宸殿の大庭の西側にある月華門のもとに集合していました。
このときの演奏の進行役は中将の重通様と季成様が務めていたんですよ。
初めに「春の調べ」、「春庭楽」が演奏されまして、それから天皇が出座され、関白忠通様、右大臣有仁様を始めとして、公卿たちがぬれ縁に座られまして、参議たちもしきたり通りに紫宸殿側の長橋へ列座していました。
通例通りすばらしい舞いを披露した者や、笛の師匠たちはご褒美の品物を賜ったんです。
そんな品物を賜った者たちの中には参議兼中将の成通様もいらっしゃったんですよ。
成通様は基政という笛の師匠がご褒美を賜ったお礼を申し上げるため、わざわざ参議の席である長橋から離れたところにある、天皇の座す清涼殿の方へと歩いていかれたんです。大変上品な感じがしますよねぇ。
さて、先程も申しましたように天皇はとてもお歌を好んでいらっしゃいまして、「久安六年百首歌」なんて催しもなさっていました。それに、勅撰歌集を編んだりもされたんですよ。
……ただ、これほどの歌好きにも関わらず、歌合はひらかれなかったというのは残念なことでした。
(※崇徳天皇は歌合を2回行っている。今鏡の誤りか)
この天皇は昔のしきたりを最高しようとのお志がおありでしたが、政治は父である鳥羽院が実権を握り続けていらしたため、思い通りに世を治めることがお出来にならなかったようでして、本来天皇であれば簡単に沙汰できるであろうこともなかなか叶わないといったご状況であったみたいです。
そうそう、お歌を詠まれる時はもちろん、朝に夕に天皇のお側仕えをしていた修理権大夫行宗という者がいたんですが、天皇はこの方を三位にしてあげようとお思いになられ、徳大寺実定様に「院に届けておくれ」とことづけられて
我宿に ひと本たてる 翁草
あはれといかが おもはざるべき
と歌を添えられたなんて話を聞いたこともありましたよ。
八重の潮路
鳥羽院は元々いらっしゃった后である待賢門院璋子様と高陽院泰子様のお二方のことももちろん大事にされておりましたけれど、新しく参られた美福門院得子様こそこの上なく寵愛なさいましてね、その寵愛はついに体仁親王を誕生させるに至ったんですよ。
讃岐の天皇(崇徳)はなかなか皇子にめぐまれませんでしたので、この体仁親王を養子として迎えられ、東宮に立てて位を譲ることになりました。
譲位があった日の午前8時ごろ、公卿やさまざまな官庁の役人たちが内裏に集まっている中で、天皇から父院である鳥羽院へ蔵人兼中務少輔師能様を使者として何度かやりとりがございました。そして、六位の蔵人の者が文書を天皇側に奉りに参りました時にはもう日も暮れてしまっていたんですが、この時に神璽や宝剣などが東宮のいらっしゃる昭陽舎の方へ、公卿たちによる護衛の中で渡されました。
こうして譲位の儀が始まったわけなんですが、「天皇の養子が即位するなんて先例のないことだから」ということで、宣命は体仁親王のことを皇太子ではなく、皇太弟という扱いで読み上げられたんですよ。
このことを宣命が読み上げられた時に初めてお知りになった天皇は
崇徳「今日は一旦とりやめにしてほしい」
と仰せられたんですが、父院は
鳥羽「もう儀式は始まってしまったんだから、急に中止にはできない」
と返されたそうです。結局譲位のことは延期にならず、そのまま譲位は完了してしまいました。
こうして近衛天皇が帝位につき、蔵人や殿上人などの任命もあって、その後も色々としきたり通りになすべきことはなされました。
近衛天皇へ位をお譲りになった讃岐院(崇徳)は9日に三条西洞院へお渡りになられ、太上天皇としての尊号も贈られたんですよ。
そんなこんなで月日は過ぎ、近衛天皇が若くして崩御されてしまいますと、現在の院(後白河)……当時は今宮(新しく産まれた皇子)でいらしたんですが、この方が帝位につかれることになりました。
この頃あたりから鳥羽院のご病気がどんどんお悪くなっていきまして、ついに保元元年7月2日に崩御されてしまわれたんです。
帝位は今宮のものと定まってはいたんですが、鳥羽院ご存命の時からなにやら悪い噂もございましたため、天皇(後白河)は宮中を厳重に警護させられていました。
そして、大昔あの嵯峨天皇とその兄院が争われた事件の再演が起こってしまったんです。
結果、讃岐院はご出家なさることになりましてね、しばらくは御弟君の覚性法親王のもとで身を潜めていらっしゃったとか聞いていたんですが、そのうちはるばる八重の潮路を分けて遠い讃岐の地へと行かれてしまいました。
かの地への道は公卿や殿上人などは1人も付き従うはずもなく、院となって後にやっと産まれた第一の皇子重仁様の御母君にあたる兵衛佐と申した方と、その他とりたてて言うほどでもないような女房1、2人ばかりを連れて向かわれました。
男なしの仮住まい生活はどれほど心細かったことでしょうねぇ。
院が親しく召使われていた者たちもみなあの浦この浦から都を離れてしまいました。
そのまま都に留まった者もいたんですが、きっと世の風聞が恐ろしくて院のもとへ顔を見せにいくことすら叶わなかったことでしょうね。
ですが皇嘉門院様や覚性法親王様のもとから人目を忍んでのお見舞いなどはあったんでしょうか。
讃岐のお住まいは本当に例えようもなく悲しげな場所であったとか。そんなひどく辺境の地に9年ほどいらっしゃいまして、辛く無常な世の中のあまりにでしょうかね、年々ご体調がお悪くなられていって、ついには都にお帰りになられることも叶わぬまま、長寛2年8月26日にかの地で崩御されました。
そういえば、昔讃岐へ流刑となった「白峰の聖」という阿闍梨がいたそうなんですが、院はこの白峰の聖の生まれ変わりであるという夢をみた者がいるんだとか。
ああ、そうそう、この院の御陵のある方角は縁起が良いんだそうですよ。
それにしても、都から遠く離れた地に院ともあろう方が崩御されるまでおいでだったなんて、大変悲しいことです。それに陽気な人であってもきっと気が沈んでしまうような道中を、ほとんど人も連れられずに渡られていた際のお気持ちはどれだけ切なかったことでしょうか。
さて、讃岐院の御母君にあたられる待賢門院璋子様は御年19歳の時にこの天皇をお産みして、天皇が即位された後、璋子様は御年23歳で后の位を降りられて女院号を賜られました。
得子様とは同じ国母とは申しましても、璋子様はあの白河院がご養女として大切にお育てになった方ですから、この上なくお栄えになられていたんですよ。まして女院号を賜られた当初はどんなにか大切にされていたことでしょうか。だって鳥羽院から大切にされていらしたからこそ、あんなにもたくさんの皇子や皇女をお産みになられたわけなんですものね。
そうそう、璋子様は現在の院(後白河)の御母君でもいらっしゃるんです。ですから璋子様は本当に高貴な方なんですよ。
璋子様は仁和寺に御堂をお造りになったり、金泥で一切経などを書写されたりもなさいまして、康治2年にはご出家されました。法名は真如法と申し上げました。
そして久安元年8月22日にお隠れになられたんです。この翌年の1月2日、璋子様の女房であった方から高倉内大臣公教様のもとへ
みな人は 今日のみゆきと いそぎつつ
消へにしあとは とふ人もなし
と詠んでおくられたことがあったとか。
この女房は源顕仲様の娘君である堀河局という方だったと聞いています。
璋子様の御母君は但馬守の左中弁隆方様の娘君です。この方は従二位光子様といって、並ぶ者がいないと言われるほど世間では評判の方だったんですよ。