自分の環境は、自分で責任を持って整えていかなければならない。自分を守るのは自分しかいないのだ
先日お見かけしたこちらのnote
同意という意味での、声にならない声がでたような気がした。
父の仕事を継いでいる「だけ」の私にとって
「自分のやりたいことを探す」のを放棄している自分がいるんだよなと薄々感じていた。
「親孝行」という大義名分。いかにも親孝行してますみたいな雰囲気を出している自分。そんな自分自身に嫌気がさしているのに。
変わりたい。けど変わろうとしない。
自分のいる建設業のごく一部分が特殊なのかもしれないけれど。
近年奇抜なデザインが重視されつつある中、中身はそのままよその設計図面で外見だけ派手にしました、みたいなものも少なくない。
たまにコダワッテいる図面も見るが保育所なのに家具の角が鋭意で危ない(普通丸みを帯びた設計にしたり、とにかく安全性は第一に考えるものなのに)とか
建具(扉)の厚みをシャープにしたいからと極端に薄くしたり、時にはムダに厚くしたり(薄いと度重なる使用の中で破損の原因にもなり、逆に厚いと重くて柱がやられたり)
全面ガラス張りの建物とかもたまにあるけど
夏は暑くて冬は極寒の建物の出来上がりです。
壁が何のためのものなのか根本を分かっていない設計って、今まで何を学んできたの?と思う。
仮にも設計は建設業界では「先生」と呼ばれる立場。中には非常に仕事熱心で、すごい頑張ってる人だっている。
けれど最近「デザイン重視の先生」も増えてきている。少なくとも私の周りの人間が口をそろえて言う。
私が主に取り扱うのは公共事業(学校、保育所、公民館とか)が多いから建物は「引き渡し期日」がある。国や自治体が○○日オープン!とうたってしまっているからその期日を過ぎるわけにはいかない。
その為に現場監督は(一部の)高飛車な設計の先生の機嫌を損ねないようにうまく立ち回り、(設計の先生の頭の中の理想論を)うまく現場レベルに落とし込めるように職人さんたちと打ち合わせをして、
その結果「こういうものなら現実的に(納期的、金額的にも)可能です。これで作っていいですか?」と設計の先生にお伺いする。
そしてそれでおkなら職人さんに作ってくれと頼む。それでダメだったら再度試行錯誤。
この作業はいつまで続くんだろうと、ふと我にかえるとなんか情けなくなってきてしまう。
東京オリンピックで建設業には補助金が出ているというが、今関東に材料が集中してしまっているせいで、地方には材料(特に金属関係)が足りていない。
大工が関東に行ってしまっているせいで地方に大工がいなくて建物の工期がそもそもの段階で遅れが生じる。
自分は仕事に対する記事はあまり書きたくなくて。
なぜか愚痴しか出てこない。
なんでもっと前向きに仕事に対してモチベーション保てないんだろう。
と精神安定剤を飲みながらたまに思う。
父が他界したら転職して
なんてのも考えたけど、それはそれで親の死を望んでいるみたいで嫌な考え方。
結局のところ親が怖いだけなんだろうな。
そんな2019年3月。これからまたどう日本は動いていくのだろうか。
なーんちゃって。