ショートショート|ほんの少しの希望があれば充分です
「蝶や鳥なんか見てるとさ、飛べるのって残酷だと思わない? 人間には羽がなくてむしろよかったかもしれないね」
「そう? 空を舞うのって素敵だと思うけどな」
「だって、歩くことが心底億劫になるだろうから……。私たちは本質的に満足ができない生物なんだよ、たぶん」
竜巻のように突然ですが、僕のこれまでの――大した長さではなく残念ながら貴重でもない――生涯について語らせていただければと思います。それでも、すべてを話すとあまりに冗長ですからトピックを厳選します。聴くのに料金はとりません、いただけるなら貰いますが……というのはもちろん冗談でして、なんといいますか、お暇つぶしにでもなれば幸いです。
僕はとある緑豊かな土地で育った。でも、たぶんあなたが想像するよりもっと物騒な日常だった。自分で言うのもなんだけれど、食うや食わず、それから食うか食われるかの戦いを生き延びたという自負があるのだ。とにかくいろいろありまして……というと漫談みたいだけれど。
どんな酷い目にあったか例を挙げたい。僕の両親は、子である僕と共に想い出をつくることもほとんど叶わなかったほど早くに亡くなった。さだめられた〈生き死に〉とはそういうものだと諭されたらそれまでだが、やはり受け入れ難い。それなのに、手を差し伸べてくれる親戚など皆無だった。僕はただ両親が――おぼろげな記憶では――好きだった菜の花を愛でて日々を過ごした。追憶だ。
もう一例。あるいは気にしすぎかもしれないが、それでも僕が深く傷ついたのは、大人に「気色が悪い」と罵られたことだ。「あっちいけ」なんて毒突かれたことも。僕は何も言い返せず、ただただ悔しさを心の中で滲ませた。
負けてたまるか、と何度も自身を鼓舞した。僕は地べたを這いつくばって生きてきたんだ。
ただ最近、大きな変化が訪れた。僕は自分の世界に閉じこもるようになった。生命そのものの温もり、そんなものが存在するかすら分からないが、どうにか探し当てるようにじっと。今僕が引きこもっているのは大いなる成長のために必要なステップなんだ。本当さ。
生涯をどう区切るかは難しい。時間で? エピソードで? あるいは個人とはまた異なる存在である社会の変遷に伴って? つまり、元号が変わったら僕も新しいステージを迎える、みたいに。
総合して考えてみると、僕は今生涯において幕開きから数えてその次のステージ〉に立っているだろう。果たして観客が存在するか、それは定かではないが。
さて、僕の第一のステージが幼虫だった。この気苦労が絶えない時期――いつもそうか――は12日間だった。そして第二のステージ(現在)が蛹。成虫原基が目や脚、羽といったものを形成したり、とにかくピラミッドの建造に比肩するほどの大工事が進行中だ。ご存じの通り、準備が整えば成虫になる。哀しいかな、蝶になったら僕はもうあと3週間ほどしか生きられない。
でも不思議と羽ばたくその日を心の底から楽しみにしているんだ。もちろん不安はある。羽化に失敗すると羽が広がらなかったりして、飛べずに死を待つだけという最悪の状況に陥ることもあるのだ。でも、そもそも僕たちモンシロチョウは卵の時期も含め成虫になれるのは(データにばらつきはあるが)0.6〜3%とも言われていて、要はダメ元だ。勇気を出して飛び出そう。……あ、僕が蝶は蝶でも種類でいうとモンシロチョウであることはお伝えし忘れていましたね。いつかあなたに僕の白くて綺麗な羽を見てもらいたいものです。
たまに、僕が蝶ではなく人間として生まれていたらな、なんて思うこともあります。走ったり泳いだり歌ったりしてみたいんです。でも、僕は人間にはできない〈飛ぶ〉ことができる。きっとね。スタンダールは「恋が生まれるには、ほんの少しの希望があれば充分です」と書きました。僕も飛べることに希望を見出し、いつか空を舞うことに恋焦がれる――そうして生きてきましたし、これからも生きていくんです。