見出し画像

ショートショート|もっと光を、もっと音楽を

 バスに乗った僕はルーティンとしてイヤフォンを耳に装着し、ミニ音楽プレーヤーの電源を入れる。そしていかにも気取っているみたいだけどショパンの『別れの曲』を聴く。ピアノの鍵盤の中央わずか左から始まる演奏。ゆっくりと今の自分とその曲を重ね合わせる。起伏のない毎日を過ごす僕が何に別れを告げるというのか? この平穏な朝にだ。バスが高校前に着くと間もなく勉強という名の戦いが始まる。受験戦争とはよく言ったものだ。  

『別れの曲』が終わると、次は曲がシャッフルで再生されるように設定する。僕の好きなアタリの曲が選ばれるか、はたまた(誤解を恐れずに言えば)ハズレの曲か、それで今日の運勢を占うのだ。ミニ音楽プレーヤーに入っているすべての曲がアタリではない。どれも好きなミュージシャンではあるけれど、そのミュージシャンが売り出したアルバムの中には自分の趣味に合わない曲も一部含まれるからだ。収録された曲が漏れなく心に響くアルバムにはまだお目にかかったことが……いや、音楽だから〈お耳に〉……いやいや、ここでの目とか耳は相手のものだからどちらもおかしいか、とにかくまだ出会ったことがない。僕はハズレの曲も飛ばさずにちゃんと聴くようにしている。好物ばかり食べていたら健康に良くないように、何事も好きなものばかりを選択していると良からぬ結果をもたらすと思うのだ。加えて、好きではなかった曲でも聴いているうちに好きになることってあるんだよね。 
 ザ・ローリング・ストーンズの『シーズ・ア・レインボー』が流れる。やった、アタリだ。僕は音楽を体に染み込ませる。この曲はパソコンや通信教育のCMにも使われたらしいが、僕が初めて聴いたのは電機メーカーによるテレビを売るためのCMでだった。後年になってこの曲のタイトルを知って合点がいった。ディスプレイの発色の良さをアピールしたいからこの曲なんだ。
 ところで、このザ・ローリング・ストーンズもそうだし、ボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』やアメリカの雑誌のローリング・ストーン誌もだけど、〈ローリング・ストーン〉という言葉は英語圏では馴染み深いものなのかな? 今度調べてみよう。どうでもいいけど〈ローリング・ストーン〉と聞くと、山本有三の『路傍の石』を思い浮かべる人は僕だけではないと思うな。
 そろそろ横道に逸れるのはやめよう。『シーズ・ア・レインボー』が佳境に入る。音楽に救われた時、そっと天を仰ぐ。バスの天井が見えた。 

 地理の授業中、僕は睡魔に襲われており、先生の話が子守唄に聞こえてしまっている。同じ授業でも現代文みたいに身近な話だとそれほど眠くならない。逆に地学の天文分野みたいに想像がつかないほど遠くの話だと、これもむしろ眠くならない。地理がちょうど眠くなる塩梅なんだ。インドのデカン高原では綿花栽培が盛んです。この地域に広がる肥沃なレグール土がそれに適しており……。綿花と聞くたびにどうしても布団が想起される。僕はそれを頭から振り払い、重いまぶたをなんとか押し上げる。そして終業のチャイムである『ウェストミンスターの鐘』が流れるその時を待つ。しかし、先生の話を子守唄に例えるなんてこの上なく失礼な話だ。

 放課後、僕はグラウンドで走り幅跳びの練習をする。中学までは長距離走だけが専門だったけど、高校に入って走り幅跳びにも挑戦することに。だから中学では脚力を鍛えるため砂浜を走ったりしてたけど、今では走り幅跳びで砂場に着地するようにもなったわけだ。
 前傾姿勢でリラックスして助走をスタート。自分のリズムを常に意識して徐々に体を起こす。目線はあくまで遠く、重心を高くして左足で踏み切る。反り跳びをして着地。距離を確認した後、トンボで砂をならす。今までは集中していたので僕の耳に入っていなかったが、その時初めて校舎から吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。僕はこめかみを流れる汗を二の腕で拭って、しばしその演奏に耳を傾ける。どこかで聞いたような曲だけどタイトルは何だろう? そしてふと、吹奏楽部の演奏は青春のBGMでもあるんだなと思う。

 たまたま帰りのバスで同級生で吹奏楽部の女の子と会い、周りに迷惑がかからない程度の小さな声で話しかける。軽く会話をした後、僕は本題を切り出す。
「訊きたいことがあるんだけどいいかな?」
「うん」
「今日、吹奏楽部が演奏してた曲でタイトルを知りたいのがあるんだ」
「どんな曲だった?」
「サッカーで例えてもいい?」
「いいよ。まあ、試しに」
「バルセロナにいた頃のメッシのロングシュートみたいな曲」
「言いたいことは分かる気がするけど絞れないな。もういいじゃない、歌ってみて。レッドカード——メッシには退場してもらおう」
「分かった、いくよ。ドゥンファンファ、ドゥンファンファ、ドゥンファンファ、ドゥンファンファ、ドゥンファンファ、ファファファーファラララーファラランファーファーファ……」
「たぶんそれは『木星』だよ。ホルストの。私も好きな曲」

 自宅に帰った僕はようやく一息つく。そしてヘッドフォンを持ってきて音楽を聴こうとしたが、思うところがあってそれをやめる。英語や数学の課題が残っているし、睡眠時間も足りていない。明日の授業に備えるのが最優先だ。音楽を聴いている暇はない。ああ、もっと光を、もっと音楽を。僕らはきっと音楽によって、光射す峡谷と出会っている。
 それから僕は参考書とペンケースとノートを取り出して課題に取り掛かる。〈ローリング・ストーン〉についても近いうちに調べなきゃな、そういえば。

いいなと思ったら応援しよう!

福永 諒
人生に必要なのは勇気、想像力、そして少しばかりのお金だ——とチャップリンも『ライムライト』で述べていますのでひとつ