ショートショート|過去はどこに?
理科の先生はアルコールランプを手に取り、僕ら児童に向かってこう注意した。「火を扱うんです。くれぐれもふざけないように」
アルコールランプの火で金網の上に乗せたビーカーの水を沸かすのだ。しかし、最も危険なのは火ではなかったのかもしれない。もちろん僕らはそれを知る由もなかった。こう書くと必要以上におどろおどろしい印象を与えるが……。
同じスイミングスクールに通っているため多少仲が良いクラスメイトの男の子が、目の前の僕に見せつけるようにマッチ箱を手で振った。箱の中でマッチ棒がぶつかり合いシャカシャカと音を鳴らした。子ども心につまらない遊びだなとゲンナリした。2006年。
さて、現在(2031年)に移らせていただきたい。僕は人工知能が党首を務める〈明るい人工知能の党〉で下っ端をやっている。考えてみると上の役職には人工知能が就き、その部下としてあくせく働くのが人間という構図になったわけだ。
この党について語りたいのは山々ですが、なかなか込み入っていて僕の技量では面白い小説になる気がしませんから、せめて僕の好きなものの話でもさせていただこうと思います。……興味ないですか? 我ながら唐突ですがせっかくのご縁ですし、後半は特にあなたと未来に伝えたいですから、どうか——
さて、僕は昔の映画を観るのが結構好きだ。最近は西部劇『明日に向って撃て!』(1969年公開)に感動した。ただはじめに断っておきたいのは、僕が「最近の映画は全く陳腐で名作は過去のそれにしか存在しない」などと偏った意見を持っているわけではないということだ。語り出したら長くなりすぎるからやめておくが、近年でも目を見張る作品はたくさんある。
だいぶ前に公開された成人向け映画も蒐集している。不思議なもので、同じ媒体でも過去の作品と最近のそれとでは根っから別物のように感じられるのだ。おそらく、成人向けを含む映画全般は(当たり前だけれど)多かれ少なかれ作り物だが、時代を隔てることでその感覚が麻痺し、まるで自らの記憶を想い起こしているかのような錯覚があるからだろう。
あまり記憶がない幼少期に世に出た作品も気に入ることが多く、そういえば子ども心にこの時代のこんな空気を感じてたよな、と興味深い。この点では映画よりも(良い意味で)俗っぽいテレビ番組が見逃せない。特に『松本紳助』(2000年〜2006年放送)は何度も観ている。お笑いコンビ〈ダウンタウン〉の松本人志さんと、今はもう引退された島田紳助さんが、練りに練られた漫才もかくやという抱腹絶倒のトークを即興で繰り広げる。肩の力が抜けているからこそ的を射ることもあるみたいだ。
あれは確か……この『松本紳助』でアスベストについて語られていた。危険性が周知された頃で、お二人によると「いっぱいあったで」という話だった。松本人志さんが「理科の実験のビーカー温めるアレ(金網)もアスベストなんでしょ?」と振ると、島田紳助さんは「よかったわ、舐めんで。なあ。子どもん時、何でも舐めとったもんな」とシュールな笑いをとっていた。
そう、ここで当然の疑問が生じる。アスベストを吸い込む危険性がある石綿付き金網はいつ使用禁止になったのだろう? 調べてみたがよく分からなかった。僕が理科の授業で使うより前に回収されたという記事もあれば、実は杜撰にもズルズルと使われ続けていたという記事もあった。いつの時代に立ってみても、その地点から振り返る〈昔〉は向こう見ずな時代なのかもしれない。
あれはいつだったか、先述の人工知能の党首に謁見する機会があった。僕は勇気を出してずっと胸中にあったことを進言してみた。「アスベストについてもっと包摂的な調査、措置および対策をすべきです」
党首はこう答えた。「そんなことより実行すべきことが山積しています。人工知能をはじめとする先進的なテクノロジーは常に未来と共に歩むのです。どうでもいいじゃないですか、過去のことなんて」