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本能について

人は理性を持って生きるべきである。
そう思ってはいるが、ときどき本能に導かれ行動することがある。
武道なんて無理!と思っていた私が学生時代に所属していたのは弓道部である。
弓を扱いたいという邪な気持ちに本能が抗えなかったのだ。
また、魚をつかめないのに、エサも気持ち悪いと思う軟弱ものなのに、たまに釣りに行くのは、弓道と同様である狩猟の本能が私を動かしているに違いない。
さて、そんなわけで釣りに行った。
青空が広がる梅雨の中休み、最高気温は30℃を超えていた。
私には釣りのポリシーがある。
行ったからには当然の如く釣りたい。そしてそれを食したい。
食したいが、自分の中で決めたサイズを満たさなかったり、得たい魚の種類が違ったりするとリリースする。とても嫌だけど、お魚ちゃんが生きている間にリリースするためには気合いを入れて掴んで、素早く針をとって優しくリリースしなければならない。
私はこれを修行と呼んでいる。
お前、さっきのオマエだろう?というのが連続すると、お魚ちゃんに説教したくなる。
釣れたら釣れたで捌く時に気合を入れなければならないけれど、これも修行であり食すための本能だ。
実に本能とは厄介なものである。
理想を言うと、執事を雇って嫌な事をやらせたい。
本当は太公望よろしく優雅に釣り糸を垂れたいのだ。
しかし私にはそんな甲斐性は無かった。
そんな妄想が出来るほど、その日は全く釣果が無かった。
ただ暑い中、外に出て灼熱地獄を味わっただけだ。
無念である。
そう思いながら私は早々に漁場からの撤収を始めた。
しかし、である。
その事は私の狩猟本能が許さなかった。
家を出てきたからには何かを得て帰りたい。
ふと釣りに向かう道中の風景が頭をよぎった。
道端に落ちていた大量の赤い実。
あれは何だ?
食べられるんじゃないか?
つくづく本能とは厄介なものである。
現場に到着すると地上に落ちた実は散々だが、木の枝にはまだたわわに実っている。
それは「やまもも」だった。
現場での細かい遣り取りはここでは端折るが、食べられると分かった私は夢中になって収穫した。
食べられる。
それだけで私の本能が、釣りでは空ぶった私の狩猟本能に拍車をかけた。
楽しい。楽しいぞ!
気が付けば、ドヴォルザークよろしく遠き山に日は落ちていた。
まったく本能とは厄介なものである。
その日、ようやく帰路につく。
途中で氷砂糖とリキュールと砂糖を買うのは忘れずに。
半分はお酒、半分はジャムにしよう。
帰宅してからが大変だった。
まず、すべてを綺麗に洗う。一個一個を綺麗に。

収穫した「やまもも」

そして時間のかかるジャムづくりから取り掛かった。
これが厄介。これも厄介。
「やまもも」には種があって面倒この上なかった。
煮込みながら「やまもも」に関して学習する。
「やまもも」はブドウ糖やクエン酸、ポリフェノールなどの栄養素が豊富。
花言葉は「ただひとりを愛する」「一途」「教訓」だそう。
私はその日、本能によって多くの事を学んだ。
大量に採りすぎて後処理が面倒だったこと。
ジャムやお酒用の容器が足りなかったこと。
そして、
やまもも酒の作り方が漠然としていたことだ。
遠い過去、両親が「うめ酒」作りをしていた事を思い出す。
「梅」も「やまもも」も同じだろうと、その時の記憶をたよりに行った。
記憶の中の両親は若く、楽しそうな笑顔で互いを見つめていた。
「やまもも」一つ、生のまま口に頬張る。
とても甘酸っぱくて、思わず天を仰いだ。
実に本能とは厄介なものである。

やまもも酒は3カ月後が楽しみ。ジャムは既に食卓に。大成功!とても美味い

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