人から褒められたら◎、褒められなくても○
人に褒められたり、誰かに認められたり、何かに選ばれたりすると嬉しい。
誰かから褒められたり、認められたり、選ばれたりすることは素晴らしいことだから、みんながその人を讃え、拍手を送る。
ぼくもそういう人には大きな拍手を送りたい。けれど同時に、隣で一緒に拍手を送っている“選ばれなかった人”にも拍手をしてあげられる人になりたいと思う。そして“選ばれなかった自分”にも。
褒められたら◎、褒められなくても○
大人になったら、なんて前置きをするまでもなく、ぼくらは子供の頃から無意識に他人との比較にさらされて生きてきた。
足の速さや背の高さ、テストの成績。もちろんそれらを否定する気はないし、どちらかといえばぼくもそういうレースに参加してある程度成果を納めてきた方なのかもしれない。
だけど、いや、だからこそと言うほうが正しいかもしれない。誰かから認められることに慣れすぎてしまうと、認められない自分に価値を見つけ出せなくなる。
ーー誰にも認められない自分に価値があるのか?
そんな風に考えてしまうことだって、ないことはない。
でも冷静に考えたら人から褒められることがその人の価値ではないことくらい、ぼくでも分かる。
人から褒められるなんてのは+α、オプションでしかない。牛丼でいうところの紅生姜だ。
紅生姜がなくても牛丼が美味しいように、人から褒められなくても認められなくてもその人が持つ価値は変わらない。そもそもぼくは牛丼に紅生姜は使わない派だし。
だから心の中では、褒められたら◎、褒められなくても○くらいに考えておくのが良いんじゃないかな。
人からの評価であなたの価値は変わらない。選ばれた人には盛大な拍手を、そして選ばれなかった人にもきちんと拍手を。そういう人にぼくはなりたい。
今日の1枚
今まで撮った中でも好きな写真の1つ。人の前を走ってグイグイ人を引っ張っていける人と、疲れた人の後ろにそっと寄り添ってあげられる人。ぼくは後者でありたい。使ったカメラはLEICA M6、フィルムはPORTRA 400。