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古街道復元PJ会

私の住んでる地域と山を挟んだ隣の地域とで、諸説はあるものの、地域の長の言い伝えなどをまとめると、その昔確かに現在の社南トンネルの若干西に並ぶ様にして、古道が存在したらしい。
それも石碑によれば、
『「帰雁紀(1712年)は、杉谷に古道あり」と記す。』
又、延喜式 968年では、朝津駅など15駅を設けるがその以北は定かではない。
とも記されている。
この様にして様々な問題がある様だが、一つ一つ紐解いて行こうと思います。

実際北國街道が現在の浅水までは間違いなく大野方面への分岐点という事もあり、そこまでは間違いなく駅はあったはずです。
問題はそれより以北の道のりです。
現在浅水からベルの裏に伸びている旧旧国道8号線は、朝倉が戦いに破れ、織田信長の命により越前を平定した柴田勝家によるものと思われる。
想像するに、それ以前は朝六川も川上と川下の高低差があまり無く、広い範囲で川が蛇行し雨が降る量が増すたびに氾濫等を繰り返されたのではないでしょうか。



大正8年頃現在の浅水川に水路が変更されると、それまでの旧浅水川の水量も極端に少なくなり、その周辺の朝六川も改修工事が進み、それまで悩まされた水害から大きく前進したと思われます。
当然周辺の道路も整備されて、現在の道路事情に変わっていったのでは無いのでしょうか。

貞亨2年(1682年)越前国地図からもわかる様に赤い線が当時の北國街道でその横を当時の浅水川が流れている事がよくわかる、しかも川も割合幅広く描かれていてしっかりした川であろうものになっています。
この川が氾濫等を繰り返し起きていると流石に柴田勝家が整備したであろう北国街道も当然その昔使用した街道を迂回路として使用していたのでは無いでしょか。
地図の中央に「杉谷越坂古道」と見えると思いますが、これが今回の復元しようかと思う、ルートです。

浅水駅からのルートは、上記の「杉谷坂越平安古街道」にある様に、城山の裾野を歩く様に古道があったとされている。

大化の改新に国郡の制が始まるが、律令制では全国数十の国に区分し畿内と七道にまとめた。
駅場伝馬などの交通制度等も定められ、都から道ごとに各国府を連ねた駅路を設けた。
諸道に4里(約16km)ごとに駅を設け、各駅毎に駅馬・宿舎などを設け、官人国司などの往来の便に備えられたものである。

《延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。》

越前国は延喜式駅制によれば、近江国より愛発の関を越えて、
松原駅(敦賀郡)(駅馬八疋)→
鹿蒜駅(今庄)→
済羅(鯖波)→
丹生駅(武生現越前市)→
朝津駅(浅水)→
阿味駅(不明)→
足羽駅(福井九十九)→
二尾駅(芦原)
の各駅に馬等を置き加賀の国に至ると記されてある。

「越藩捨遺録」(寛保3年 1744)によると
浅水駅より西の山麓の→
安保・杉谷・引目の各村を経て→
(江守坂・杉谷坂)を超えて→
南江守の渡しを渡り→
渕村西谷村から→
梭越(兎坂越)を越え→
山奥村を通り→
北の庄(福井城下)への道であったという。

ここでは、浅水駅から足羽駅までの古道を検証して、ほとんどが生活道路に変わっている中、途中の杉谷町から南江守町の杉谷越えを含めて古のロマンを感じながら、復元し地域の財産を後世に残して、消されていった歴史の謎を紐解きながら会の活性化を図って行きたいと思います。

浅水駅から安保町・杉谷町の城山の裾を抜けて現在何処となく情緒が残る先の「杉谷町越平安古街道今昔」にも記した、古街道PJルートいわゆる

「杉谷坂越平安古道」

になります。

時は2017年平成29年春
この時点で道など見る影もなく、
地元の人も「その昔ここにも道があり自転車を担いで登った」等いろんな昔話を聴きながら、
先に紹介した清明地区の方が建てた、石碑付近からスタートとして、北上し峠を越えて下って行くと南江守の社南トンネル北側の駐車場に出るまでを案内して頂きました

「あの2本の杉の木の間を抜けていくとあの峠に行くんやぞ!」

と言われると、そこが険しい竹藪であろうと言われるまま、ナタとちっちゃいノコギリを握りしめ道を切り開いて行きました。

坂の登り始めすぐに、道標が竹藪と雑草にまみれて、姿を表し出来ました。



現れた道標をよく見てみると
「右 南江守村」
「左 合谷村」
と記されています。
県道の拡幅工事を考慮したとしても、この場合へ移設はされていても、この道標は明治以前から置かれたものではないのでしょうか。
それにしても、ここに道があり案内する物が現在も残っていたとはビックリしました。

この道標で言うところの右をそのまま直進で杉林を登って行きます。

律令時代に古代道「道幅」が作られた当初は道幅がいろいろ定められていて、初期12m、その後9mまたは6mと広幅員で、ここは北陸道地方道にあたいすると思われます。
これから北上する杉林も、先の地元方が案内してくれた2本の杉の木の間も概ねそれらの「道幅」で峠まで続いていっていました。

峠まで着きました。この峠その昔峠の茶屋でも出来そうなくらいなんとも言えない平な登頂部でした。
当時ここを牛車とか通り、社の庄で出来たお米を遠く都まで運んで行ったと思うと、なんだかノスタルジックな気分でした。

峠まで来て後は南江守まで降って行こうとすると、丁度道の真ん中の谷の部分にお地蔵さんの動体が見つかり続けて台座・祠の背面の石造が見つかりました。
なんだかお地蔵さんが、この2地区の整備を祝って下さっている様な気持ちを受けながら峠より少し下った所に配置しました。

整備を繰り返していると祠の側壁も見つかり見事に重なり合うことができました。しかしながら、どうしても頭の部分が見つかりません。
諸説あるとは思いますが、明治初頭の廃仏毀釈の影響により頭の部分が壊されたのかもしれない。
ま、猪が転がして壊したかもね?
この道を歩く時は、手を合わす事を忘れない様にしたいものです。

やはり目標となるのは2本の杉の木、要所要所に2本の杉の木が植えられている様に思われる、単なる偶然であろうか?

南江守側中腹にこれ又立派な岩があり夫婦岩の様に並んで鎮座している、長い年月を経て育った木が岩の上に生えていて、古街道復元プロジェクト会のシンボルマークにもなっている、「夫婦岩」です。

竹藪で少しは歩けるかなぁの程度でしたが。

整備してそこそこ綺麗になりました。
次はどう維持して行くかですね。

そして南江守側入り口に到着です。

社南トンネル北詰駐車場から見ると、こんな感じです。

ここからは、分岐点の道標まで戻り、城山の合谷町方面の整備について触れていきます。


平成15年から平成18年にかけて車の往来がしずらかった県道清水浅生津線の整備が終わり道路の道幅も広がりましたが、その分山も削ぎ落とされ、法面も何段かでそぎ落とされそのコンクリートの上を安全に行き来出来るよう整備しました。

画像の中央少し右にあるのが道標
そのすぐ左の階段を登って行くと合谷町へと続きます。

やり初めはボウボウの草と見分けがつかないくらいの側溝などが有り苦労しました。

そこを進んで行くと「古街道PJルート」合谷側入り口
整備前

入りやすい良い様に階段と猪対策用のゲートも作りました。


この先は

古街道復元PJ会
 〜城山登山道 合谷ルート編〜

をご確認下さい。



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