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自然という名作
遠方より朋きたる。
全くディスティネーションが無いように見える置賜の地を「釣りで一番いい思いをさせてもらった地」だと絶賛してくれるICU時代の友達が遊びにきてくれてました。
行き先はもちろん渓流。
長井から車を走らせ、ずんずん山道を行くと、人工物の極みのようなダムが見えてくる。そのダムを越えると、ぱたりと人工物がなくなり、ただ木々と巨石と水とあらゆる生命がある世界になる。
数年前に教えてもらったテンカラ釣り。
竿と糸と毛鉤だけの非常にシンプルな仕掛け。
足裏で石の感触を確かめながら、ひんやり冷たくなった川の水を膝に感じ、肌には秋らしくなった風と、秋らしからぬ強い日差し。
あたりを見渡し、川に転がる石に目をやり、水の流れをつぶさに捉え、魚の気分を見立てて投げる。
脇を締めて、手首を柔らかく、竿で弧を描くように糸を動かし、お目当てのポイントに毛鉤を落とす。
幾度となく同じ動作を繰り返しているうちに、竿と手の境目がわからなくなるような感覚が芽生えはじめる。
肩から腕、指先の感覚、そして竿、糸、毛鉤。水面にぽとりと毛鉤が着水する感覚が、自分のように思えてくる。
そんな風にフローに入ると、時の流れさえ忘れる。
ゴツゴツした石の感覚も、水の冷たさも、日差しの暑さも、風の音も。
自分と世界との境目がわからなくなる。
そんな刹那。
ぐい、と
引く手の感覚で、現実に引き戻される。
力の主は、二年物のヤマメだった。
体感覚が研ぎ澄まされ、世界と自分との境目がわからなくなりつつある求道者くずれは、その瞬間、獲物を目の前にした動物のようなたぎり、いや、退屈を抱くヒトが騒ぎを得たような興奮に引き戻された。
空中を舞うヤマメはそれでも小刻みに身体を震わせ、生きんと必死である。手に直接、その思いが伝わる感覚。
そうそう、テンカラはこれだったと思い出す。
結局、今日の釣果はこの一匹のみ。
されど、朝から日が落ちるまで、無心で竿を振り続けるその最中は、たのしさに満ち溢れていた。
常に、目の前の自然との対話を試みる。水の流れはどうか、魚影はないか、水生昆虫はいないか、木の影がどう落ちてるか、さっきと変わったことはないか、何か感じないか。
***
夜な夜な語り明かす場があった。 教育について。
普段はそんなことまで明かさないのだけれど、その日はラム肉の脂が饒舌にさせたか、根底に考えていることを言語化していた。
「教育」という概念が、もう耐えられなくなってるんじゃないか。
もう少し、クリアにするとすれば、啓蒙主義的思想に裏打ちされる教育はもう立ち行かないのではないか、という話でもある。
***
沢を登りながら考えた。
この朋は、初心者だからと先回りしていろいろ教えるようなことはしない。自分だったらこう考えるということは伝えれど、指示をしたりはしない。
釣れなければ退屈するのではないかと心配してくれるけれど、楽しそうに試行錯誤している様子を見て本当に嬉しそうにしてくれる。
必要なのは解像度でも、事前知識でもない。
自然という名作は、元々味わいやすいものでも、噛めば味が出るものでもない。そんなのは、こちらの舌の話だ。
ただ、脇目も振らず、どっぷりそこに浸るだけで、十二分に楽しいのである。こんなことすら、誰かに楽しみ方を教えてもらわなければならないのなら、人類の「進歩」とはなんぞやと言わざるを得ない。
わざわざ遠くまで来て、楽しい機会を生み出してくれた、朋とこの世界に感謝。