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きみのこと はじまりのこと

元気にすくすく育つ、二人の娘たちのこと。大切なことはわすれない。けれど、日々の小さなできごとが「大切なこと」と気づくには時間がかかる。いつかの自分に宛てて、いつかのきみに宛てて。

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ようこそ、この素敵な世界へ。

嬉しい知らせも、悲しい知らせも。ありとある「知らせ」というものは、本人が予期しようがしまいが、期待しようがしまいが、突然、不意に訪れるものである。電話が鳴った。会社から支給されたiPhoneには「さとちゃん」と表示されていた。付き合っていた彼女である。電話口から興奮と不安が入り混じった声が聞こえる。
「けんくん!大事な話があるよ。」
不思議と、そのあとに続く話が予想できた。

「妊娠した!」

予期していたわけではないが、期待していたわけではないが、なぜだか「きっと赤ちゃんを授かったんだ」と、ふと、脳内に、心に、身体に降ってきた。
わたしと、さとちゃんがどんな風に出会い、どうやって共に過ごし、どんな毎日を観てきたか。これまでその二人がどんな風に歩んできたのか、という物語も、大変綴り甲斐のある話だけれど、今回は「きみのこと」を書くと決めたので、割愛する。

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「名付け」という行為

「きみ」がおかあさんのお腹に宿って、この世に生を承けてからというものさとちゃんはみるみる「おかあさん」になっていった。その変化というものは、驚くもので、それまで大好きだった日本酒も飲まなくなったし、いつまでも甲斐性なしにふわふわとしているわたしは、よくおかあさんに叱られた。(今でもよく叱られている。)
段々と大きくなるお腹の中の「きみ」の姿に想いを馳せながら、わたしははじめての大仕事を担うことになった。

「きみ」の名前を考え、「名付ける」ことである。 

「名前」を考えることなんて、大した話じゃない。と、考えていたわたしはこの「名付け」の沼の深さを思い知ることになるとは、この時まだ知る由もなかった。
おかあさんと一緒に、軽い気持ちであれやこれやを考えてみる。けれども、一向に、稲妻が走るような、これだ!という手応え感と腹落ち感のある「名前」はおりてこない。

よくよく考えてみると、これまでの人生で、何かを本気で「名付け」たことなんて、ほとんどなかった。世の中にあふれるものは、大体先哲たちや、同時代の誰かによって「名付け」られているし、自分が名付けたことがあったのは、ペットの金魚や、中二病が炸裂していた少年期に書いた作文やエッセイくらいだった。(それすら、「no title」とか「14歳の両の眼が捉える社会」とか、そういう名前を付けていたのだから、センスは皆無としか言いようがない。)
あるいは、「あだ名」というのを友達に付けたことはあった。けれども、夜店で捕まえてきた金魚の名前にしても、その場のノリと勢いでつけた「歌舞伎役者」というあだ名にしても、そこにはすでに金魚や、せとう君という実体が存在しており、その実体に照らし合わせて、自分の辞書からなんとなく付けただけである。

迷走する。これでもか、というほどに。

改めて「名付け」の難しさと奥深さに気づいた時にはもう遅い。すでに、両足が名付け沼にからめとられている。あとあとになって知るのだが、どうやらこの「名付け沼」というのは、大方どの家庭にも存在するらしい。
結婚する前、子どもが生まれる前であれば「ピカチュウとか、キラキラネームとかありえへん!絶対そんな名前付けへんわ!」と楽天的に言い放つことができる。けれども、人間というもの、「明確な答えのない問い」と向き合った時に、思いの外たやすく自らの「アホさ」というのを露呈させてしまうのである。
先に断っておくが、いわゆるキラキラネームをバカにしているのではない。むしろ「キラキラネーム」という表現の中にすでに、「沼」のこっち側と、あっち側という分断を観て取れるのだ。なんだか堅苦しく表現しているが、結局のところ、言いたいことは一つ。「名付け」は難しい、ということ。

実際、我が家でも、迷走した。

性別がわからないうちは、ああでもない、こうでもない、と気楽に言える。わたしはなんの迷いもなく「男の子なら、藤次郎だ。元服してから諱を自分でつければいい」だの、「真田昌幸に習って、長男だけど次郎でいいんだ」だの、アホなことを言っていた。おかあさんはおかあさんで「”き”で始まる名前は発音しにくいからいやだね。」とか可愛いことを言っている。
そんなことを言ってられるのも、最初のうちだけ。女の子ということが判明し、我が家では暫定的に「まめこ」という呼び名を定めた。そうでもしないと、コミュニケーションが取れない。「はなこ(仮)」とか「no title」なんて付けれるわけもなく、暫定的に「まめこ」と呼んで、愛で始めた。

ただ「願い」が束ねられればよい

大人たちが「名付け」を前にしてあたふたしている最中にも、まめこはすくすく大きくなっていく。日に日に、おかあさんのお腹をキックする回数が増え、みるみる大きくなっていく。
どうやって「名付け」ようかと、いろんなネットの記事を読んだり、姓名診断のツールを使ってみたり、人気の名前を調べてみたり、一足とびに「答え」にたどり着きそうな手立てばかり考えて、沼の中でもがいていた。
そんな風に過ごしていたある日、わたしの中に一つの答えめいたものが降ってきた。それは、「なんという名前にするか」が大事なのではなく、「どんな願いで名前をつけるか」が大事なのではないか、ということだ。

ふと思い出したのは、まめこが宿ったとわかってすぐの頃の話。

検査キットで妊娠が判明したのち、産婦人科に診察に行ったさとちゃんから「心拍が確認できないから、母子手帳はまだもらえなかった」とメッセージがきていた。わたしはその意味があまりよくわからず「どんな気持ち?」とかって無邪気に返事していた。
けれども、そこから何度も診察に通えど「心拍が確認できなかった」という同じメッセージが届き、さすがにアホなわたしも薄々気づき始めた。もしかしたら、ダメかもしれない。

「赤ちゃん難しいかもだって」「厳しいから入院にもならない」と、悲しさを抱えながら伝えられるメッセージに、やるせなさと、無力さを感じた。

この1週間が山場。そう伝えられてから、迎えた検査の日。
恐る恐る「心拍あった?」と尋ねてみると「あった!!先生もすげえええ!ってびっくりしてた!」とさとちゃんの飛び跳ねるような返事。

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そうだった。わたしは「きみ」がただ、元気に生まれて、目一杯その命を、この世界で、いろんな人とともに、紡いでくれるだけで、幸せなんだ。
小さな心音が、この世界にこだましたこと。この小さな事実に向き合った時の自分の喜びと改めて向き合った時、一筋の光が差し込んできた気がした。

紬(つむぎ)と結(むすび)

結局、わたしは「きみ」に紬(つむぎ)と名付けることにした。どんな願いを束ねて、ここに至ったのかを、いつか
「きみ」が読んでくれることを楽しみにして、そう上手くもない文字で命名の一筆も書いてみた。いろんなことを並べ立てて書いたけれども、なにより、「きみ」が元気いっぱい「ふくいつむぎです!」と自己紹介をしている姿が好きだ。

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「きみ」の名付けで大層悩んだわたしたちは、懲りずに「きみ」の妹の名前でも同じように悩むことになることを、このときはまだ知らない。

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けれども、「きみたち」二人の名前は、どちらも、わたしたちの「願い」を束ねて名付けた名前であり、どちらもシャレも込めて、苗字と名前で韻を踏んでいる。「きみたち」の親父が「ふくいけん」というシャレな名前なんだから、これくらい許しておくれ。

いつか、きっと、きみたちも、何かに名付けをする日がくると思う。
あるいは、「名付け」のように、「答えのない問い」と向き合う日が遠からずくると思う。

そうした時に、迷いながらも、自分の中にある「願い」に素直に耳を傾け、自分なりの「答え」をつむいだり、むすんだりしながら、しなやかに、元気に、すくすく育ってくれますように。

きみのこと はじまりのこと おしまい。

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