「3年目の覚悟」に隠された苦悩の野球人生
ワイラプインターンの森田健太郎です。
選手インタビュー企画、「#ワイラプ博物館」の第5回目の記事執筆を担当させていただきます。
この連載では、博物館のように選手一人一人の歴史が分かる場になればと思います。そして読者の皆様は、ぜひ選手の魅力を発掘してください!
本日は、三染真利 選手のインタビューです。
三染真利(みそめ まさとし) 大阪府八尾市出身 1995年10月18日生まれ
八尾柏原ツインズ▷敦賀気比高校▷関東学院大学
-本日は、福井球団で3年目を迎え、投手陣の大黒柱として活躍が期待される三染選手の野球人生を聞かせていただこうと思います!
三染(以下、三):よろしくお願いします!
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■家族への思いと野球への思い
-では小学生時代から伺いたいと思います!
野球を始めたきっかけは何だったんですか?
三:昔、中学教員として野球部の監督をしていたおじいちゃんがグローブを買ってくれたのがきっかけです。
おじいちゃんをはじめとしてお母さんも教員だったので厳しい家庭でしたね。
今の姿からは想像できないかもしれないですけど、ピアノとかそろばんも習ってました(笑)
-小学生にも関わらず多忙だったんですね…!
いつ頃から野球は本格的に始めたんですか?
三染:小学3年生から少年野球チームに入りました。
実はその1年前、2年生の頃に母が病気で亡くなってしまいました。
とてもつらかった中で大好きな野球に熱中する時間が欲しかったので少年団に入れてもらい、そこからは野球三昧の日々でしたね。
-壮絶な過去があったんですね…。そんな小学校時代から中学はどんな進路選択をされたんですか?
三:中学は硬式のチームを選びました。高いレベルでやってみたいっていうのが一番の理由でしたね!
ずっとピッチャーでしたが、人数がそんなに多くはなかったので色々なポジションを守りましたね。
最後の大会でエースナンバーをもらえなかったことは本当に悔しかったのを今でも覚えています。
-熱い中学野球だったんですね!
ご家族は応援してくれていましたか?
三:父親とは、当時なかなかうまくコミュニケーションを取れませんでしたね。
思春期ってやつです(笑)
ただ、母が亡くなった実感がようやく湧いてきてしまったというか…。父は朝から夜遅くまで働いてたので、家に帰っても誰もいないというのはさみしかった部分もあると思います。
だから今だから言えますけど、家に帰らないこともありましたね。
そんな中でしたが、野球は本気でやっていましたし、その頃から甲子園は憧れでした。
-福井の強豪校である敦賀気比高校を選ぶのはどんな経緯があったんですか?
三:中学時に春夏と全国に出場できたときに、福井の強豪チームと練習試合を組ませてもらいました。
そのチームの方が、自分を敦賀気比の監督に推薦してくださり、2回目の試合の時に見に来てくださいました。
元々甲子園を目指せるチームでプレーしたかったので、すぐ決めましたね!
ただ、大阪を旅立つ日に友達が20人くらい見送りに来てくれた時は号泣しましたね(笑)
(中学3年時 写真中央が三染選手。たくさんの仲間に見送られ大阪から1人で福井の地へ)
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■ケガを乗り越え、憧れだった甲子園のマウンドへ
-レベルの高い中でのスタートは、順調でしたか?
三:順調だったと思います!けど今までとは比べ物にならないくらい練習はきつかったですね。公式戦ではないですが3年生に交ざりベンチに入れてもらっていたのでスタートとしてはとてもよかったですね!
-かなりいいスタートだったんですね!その頃からストレートには自信があったんですか?
三:そうですね。1年の時から133キロとかは出ていました。
ただ1個上の先輩が引退し、新チームになりたての頃(2年夏)に大きなケガをしてしまいまして…。
-ケガですか!?
翌年のセンバツで投げていませんでしたっけ?
三:そうなんですよ。あれは今でも奇跡だと思っています。
顎にデッドボールを受けてしまい即入院でした。
ご飯も満足に食べられず体重も12~3キロ減りましたね。
噛むことができないので流動食生活が続きました。あの日々はキツかったですね。
チームは秋の大会で勝ち進んでおり、翌年のセンバツ出場がほぼ確定していたので、すごく悔しかったのを覚えています。
ただ、そんなときも高校の東監督が何度も手紙を送ってくれました。「信じてる」という言葉が春までの復活の支えでした。
-そんな厚い信頼関係があったんですね…。
そんな逆境の中での甲子園のマウンドいかがでしたか?
三:言葉にはできないですけど、最高でしたね。(笑)
ずっと憧れだったので。
前日は眠れないくらいワクワクと緊張が止まりませんでした!
地元の友達や中学の先生が応援やメッセージをくれたのは本当に嬉しかったです。
父親ともこの頃には完全に和解していました(笑) 喜んでくれたのをすごく覚えています。
(高校3年のセンバツ登板時に掲載された記事)
―周囲から愛されている三染投手ならではのエピソードですね…!
やはりその頃からプロへの意識はあったんですか?
三:はい。僕以外のピッチャーもプロ注目だったので、スカウトの方は何度も足を運んでくださいました。当時の自分に注目してくれる球団もありました。
ただ、今すぐには厳しいということもあって大学への進学を選びました。
―――
■期待とプレッシャーのジレンマに悩む4年間
-関東学院大学へ進学されました。この4年間は思うようにいかなかったと伺いました。
三:そうですね…。イップスになってしまったのがこの大学野球です。
1年生の頃は順調でした。ただ、先輩方の中でプレーすることに多少気を遣っていた部分もあります。ただ、特待生で入学した分期待に応えたい!っていう思いもあったので苦しい時間でしたね。
-そうなんですね…。実際イップスになってしまうとどういう症状が出てしまうんですか?
三:マウンドに立つとボールが指から離れなくなってしまったり、バックネットに突き刺してしまったり。
普段は何でもない投球練習も、スカウトの方が来たりしていると全然投げられなくなってしまったりしましたね。
色んな人が意見を頂けるのですが、上手く整理できなくてバラバラになってしまいました。
-結果を出したいと思う気持ちが裏目に出てしまったんですね…
三:そうですね。本格的にまずいなと思い、「イップス研究所」というところに通い始めました。
一度は回復して、その時期にリーグ戦で投げさせてもらうこともできました。
横浜スタジアムで144キロを投げられるまで復調したんですけど、中々調子が長続きせず、投げられなくなってしまうことも多々ありました。そのまま調子が上がらず引退を迎えてしまいましたね。
(イップスで苦しんだ大学時代)
-苦しい大学生活だったんですね。聞きづらいですが、そこで野球を諦めようとは思わなかったのですか?
三:何度も野球を辞めたいとは思いました。ただ、どうしてももう一度投げたい。プロに行きたいという思いが消えず、社会人野球の練習にも参加させてもらっていたんですが、入団は難しい状況でした。
父親にも厳しいと直接言われたのが決定的ではありました。
そして、やりたいとモヤモヤしつつも、完全に諦める予定だったんです。
そんな中、衝撃的な出会いだったのが個人スポンサーにもなってもらっている、かみじょうたけしさんなんです。
-この状況で出会ったんですね!どんな出会いだったんですか?
三:大学の同期と沖縄に卒業旅行に行ってたんです(笑) その時、居酒屋でたまたま見かけて。声をかけさせてもらいました。かみじょうさんもさすがの高校野球通なので僕たちの事を分かってくださり、話が盛り上がる中で悩みを打ち明けました。
-そこで相談されたんですね!
三:はい。大学生の悩みを真剣に聞いてくださったかみじょうさんには今でも本当に感謝しています。
「悔いが残るならとことんやったほうが良い。野球をもし続けるってなったら俺は本気で応援する」と力強いお言葉をいただけて心が本当に救われ、完全に火が付きました。
-今もスポンサーとして応援してくれている偽りのないところがかっこいいですね!
三:本当に今でも僕の原動力になっています。そこから一度就職をするんですが、その言葉と、人生このまま終わったら楽しくない!と腹をくくり、先は決まってなかったですが会社を1年経たず辞めました。
会社の方も夢を全力で応援すると言ってくださり、快く送り出してくださいました。
そして後から知ったんですが、かみじょうたけしさんは遠い親戚でした(笑)(笑)
-親戚!ものすごいご縁ですね!!笑
いろんな方に支えられ、応援されるのも三染選手の魅力かもしれませんね!
ただ、そこからは福井へはどのような形で?
三:これもまた縁あってなんですが、大学の頃通っていた「イップス研究所」の先生がBCリーグに紹介してくださったんです。そこからテストを受けさせてもらいました!
最初は給料も出ない練習生という立場でした。
ただ、高校時代の友人の家が営んでいるお店でアルバイトさせてもらったり、高校時代を過ごした土地ということもあり、この地で成し遂げたいという思いでした。
-高校を過ごした福井の地での再挑戦。入団当初はどのような成績でしたか?
三:チームのケガ人状況もあり、1年目の途中から選手契約していただくことができました。ただ、もちろんイップスが完全に治ったわけではありません。調子の波が安定せず2年目のシーズンも途中までは納得いくフォームでは投げられませんでした。
しかし、乾さん(当時:富山GRNサンダーバーズ)のキャッチボールを見たときに変わった練習法をしているのを見て「これだ!!!」と思ったんですよね。
今まで、福沢さん(当時の投手コーチ、現ワイルドラプターズ監督)に頂いていたアドバイスと一本の線で繋がるような感覚でした。
-今までの知識がつながったんですね!
三:そうなんです。そこから見違えるように安定し、去年はローテーションを任せてもらえるほどになりました。スピードにも好影響があって148キロまで出るようになりました。
三染選手のTwitter : https://twitter.com/misso1018/status/1253125714104119297?s=19
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■自ら声を上げ、生まれ変わった福井球団。今年にかける覚悟とは。
-イップスを乗り越えて迎える3年目のシーズン。年齢的にも勝負の年になると思いますがいかがですか?
三:そうですね。自分もNPBを目指すためには勝負の年だと思っています。
例年以上に仕上がっていますし、ストレートもスピードだけじゃなく、空振りが取れる質の高いまっすぐを目指しています。
-そんな大事な11年になるときに球団存続の危機もありました。どういう心境でしたか?
三:正直、やっとこれからという時期だったので何とか野球がしたいという思いが強かったです。
ファンの方もなくなることは望んでいないと思ったので、僕はおそらく選手では一番最初に存続に動き出しました。
署名活動やSNS発信で署名を集めたり、スポンサーを探したりする活動から始めましたね。
だからたくさんの人の声が届いて今は本当に嬉しいです。
-三染選手の行動がチームを救う一歩目だったんですね!胸が打たれます…!
最後になりますが、今シーズンのへ思いと、その先の夢についてお伺いしたいです!
三:開幕がいつになるか分かりませんが、心が折れることはありません。
それくらい今シーズンにかける思いが強いです。
色んな人がいて僕はマウンドに立つことができます。だからこそ、闘志あふれるピッチングを福井の地に見に来てほしいと思います。
また、僕はやはりイップスやケガで悩んでいる人の希望でありたいと思っています。
直接教えることがなかなか難しいですが、諦めず向き合い続ければまた投げられるという希望になりたいですね。
だからこそ、今年活躍してNPBのマウンドに立つことが一番だと思っています。
-ありがとうございます!最後に応援してくれる方にメッセージをお願いします!
三:いつもみなさんの応援のおかげでマウンドに立つことができています。皆さんの期待を超えられる結果で恩返ししたいと思いますので、応援よろしくお願いします!
-SNSでも積極的に発信されている三染選手。ぜひSNSもチェックしながら開幕を楽しみに待ちましょう!
(文責 : 球団インターン 森田健太郎)
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