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自然神との対話の足跡⑩

青森で訪れた小牧野遺跡三内丸山遺跡は、「海と山と川の豊かさが人を豊かにしてくれる」という古代からの贈り物(遺言)を全身で受け止めることができる場所でした。数千年前の縄文時代の私たちの祖先は、自然の幸を楽しみ、個を磨いて生きることを満喫する生活を営んでいたことが分かります。家族を養うために(あるいは老後を楽しみに)個を犠牲に働いている現代人は、生きるとはどういうことかを縄文人に学ぶべきだと感じました。以下では羨ましい限りの縄文の豊かさの証を書き留めておきます。

日本の食文化の原点

エゾニワトコを中心に、サルナシ・クワ・キイチゴなどを発酵させた果実酒が作られていたようです。三大丸山遺跡からはこれらの植物の種子がまとまって多量に出土していて、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギなどと一緒に出土していることが醸造の実施を裏付けています。

ニワトコの実からお酒ができるまで:by さかいひろこ

縄文人は自然の恵みを上手に生かして豊かな食生活を送っていました。縄文人はこちらのような多様な旬の食材を季節にしたがって自分で調達して料理し、ご馳走を堪能したようです。

小牧野遺跡 縄文の学び舎展示室資料より

農耕・工芸の証拠

三大丸山遺跡の大型掘建柱がクリの木であったことで、縄文農耕が証明されました。真っ直ぐに伸びる十数メートルの均質のクリの大木をたくさん入手することは、計画的に近くで栽培したり、枝を剪定したりする管理をしなければ不可能だからです。

三大丸山遺跡から出土している草木の仲間の一覧を季節ごとに並べると次のようになります。植物は食用だけに利用していたのではなく、紐、衣服、籠、袋などの材料として利用したり、染料や塗料(漆など)としても利用していました。

「縄文農耕の世界」佐藤洋一郎、PHP新書(p178)より

地域オリジナルの自然暦

植物を管理したり農作業を行なうためには独自の暦が必要になります。季節の変化を予め知るために、日の出日の入りの方向を確認して絶対的な季節の移り変わりを把握していただろうと思われます。三大丸山遺跡に環状列石がありますが、小牧野遺跡には日本で最も規模の大きい環状列石があります

小牧野遺跡 縄文の学び舎展示室資料より

各地にある環状列石は形も大きさもさまざまであるようですが、それぞれの地域でオリジナルの自然暦が求められた帰結ではないかと考えます。直径55mの小牧野遺跡の具体的な構成としては、特殊組石が夏至の日の出、奥羽湾の中心の方向に配置されていることなどが確認されます。自然暦(カレンダー)を作るなら特殊組石などのみ配置すれば良いはずですが、どの地域も列石の形状が円になっています。各地で環状列石が作られた時期が一致している(後の弥生や古墳時代に採用されていない)のはなぜか。これらの他、具体的な運用の方法など不明・不思議な点が山積みで、専門家の間でも説明を模索中のようです。

小牧野遺跡 縄文の学び舎展示室資料より

三大丸山遺跡は縄文時代前期~中期(紀元前3900~2200年)の1700年間続いていました。文字の無い時代にも食文化や農耕・工芸のノウハウは社会の中で体系化され、先祖から子孫へと発展しながら伝承されました。家族で卓を囲むだけではなく、共に暮らす近隣の仲間たちが共同作業して情報交換・伝達する機会が行事(祭り、祀り、市など)となり、地域のオリジナル自然暦に列石の形で刻んでいったと考えます。その一つの証拠が小牧野遺跡の年輪のような何重もの環状列石だろうと推察します。

あとがき

本物の文明に出会えた幸せを感じます。「機械や制度」などの偽物の文明が積み上げてきた捏造から覚醒する旅になっています。文字として残っていなくても、私たちは遺跡をお散歩すれば縄文の祖先と対話ができます。明日の生活を縄文人に習って見直して暮らしていく力をもらえました。

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JinseiDohraku
人生は宝石箱をいっぱいに満たす時間で、平穏な日常は手を伸ばせばすぐに届く近くに、自分のすぐ隣にあると思っていた……