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愛を語る農家
うちでは産直野菜の宅配サービスを受けてます。定期的に野菜の詰め合わせが届きます。
その中に通信みたいなやつが入ってます。これ↓
![](https://assets.st-note.com/img/1734787254-TdkWgrUxAqVGZ5bXjItuHLaN.jpg?width=1200)
その裏側に毎回、農園スタッフのコラムが載っており、それをうちの彼女は愛読してます。俺は今回初読だったんですけど、それが今回の野菜の出来はどうか…みたいな話じゃなくて、愛とは何か?という内容でした。
以下、改行だけ加えてそのまま載せます。
【こじらせ中村のコラム 『今宵宇宙の片隅で』】
愛とは何か。
私は長らくおつきあいしている女性がいるのだが、その人の事を愛していると本当に言えるのかと悩んでいた。
若い時の恋愛のように身を焦がすような、後先考えなくなるような熱情があるわけでもない。
会えなくて苦しくなる夜があったわけでもない。
感情の波は穏やかで、動いたとしてもさざ波のようだ。
このような状態を好きだの愛しているなどと呼べるのか?
「愛」と辞書で調べてみてもはっきりとはしない。
いつくしむこと、大切に思う事、いとしい、慕うetc......
そもそもいつくしむとは、いとしいとはなんだ。
堂々巡りだ。
確かに私は彼女に対して他人に対するものとは違う感情をもっている。
会いたいとも、触れ合いたいとも思う。
だがそれが愛なのか。
愛とはもっとなにか特別な「何か」ではないのか。
これでは友、家族、ペット、たまたま子供や動物に向ける感情と何が違うのか。
そこまで考えて、ふとサルトルの言う「実存は本質に先立つ」という言葉を思い出した。
人はただ現実世界に放り出されているだけの存在にすぎない。
そこに意味もなければ使命も(各々の法や宗教における義務とは別の)義務もない。
ただ在る。そういうことを多分サルトルは言っているのだろうと解釈した。
これはそのまま愛にも言えるのではなかろうか。
どうやら私は愛という明確な何かがあると勝手に定義しており、今の心がそれとは違う(そもそも明確に決まっていないものに対してそう思うのもおかしな話だが)と感じたので悩んでいたのではないか。
要は真実の愛 (笑) を求めていたのだ。
ちゃんちゃらおかしい話だ。
齢40を超えてこんな単純なことに惑いに惑っていたのか、と。
会いたいから会いたい、ただそれだけでいいではないか。
それが誰かの定着する愛でなかろうが、そもそも愛とは呼べないなにかであろうが関係ないのである。
それは例えば生きる意義を何に見出すか人それぞれ違うように。
わざわざ幸せだの勝利だの成功だのが意識だと押し付けられるのはとても窮屈なはなしである。
人生を通じて何が生きるという事なのか模索するように、 人に対する感情もまた千差万別で模索しうるものであるはずだ。
生涯続かないものでもいい。
キラキラと輝くものでなくともいい。
普遍的な愛など、真実の愛など必要ではなかった。
ただ会いたいとふとした瞬間に思う事実でもって私は私の感情を肯定した。
お、おう!って感じですよね(;^ω^) どうでしょう? すごくない?
この人はどういう人なんでしょう?
この通信には顔を隠した怪しいおっさん風の小さな写真↓が載ってましたけど、
![](https://assets.st-note.com/img/1734787452-VazjPDpS2KFiNC1c49Jyg60H.jpg)
農園のHPを見てみたら、そっちにはさわやかな感じの写真が載ってました↓
![](https://assets.st-note.com/img/1734787478-8KeFJ7UR2oY50mdLwxurO9j4.jpg)
43歳。農園が誇るコラムニストだと。
文章を読むと偏屈な哲学青年か?って感じですけど、おすすめのゲームはタクティスオウガとか読むと少しホッとします。
さて、老人のうんちくは嫌われるもの第一位かもしれませんけど、俺のnoteなんてスクロールすりゃいいもんですから、少し語らせてください。
こじらせ中村さんが書いてたサルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉について。
サルトル先生は「人間は実存が本質に先立ち、人間以外の万物は本質が実存に先立つ」と言ったんですね。
どういうことかというと、たとえばコップは、コップとして存在する前からコップという用途が決まってます。つまり本質(コップという用途)が実存(あること)より先行してます。これが「本質が実存に先立つ」ということです。
しかし人間は違ってて、用途が決まらないまま生まれてきます。これが「実存が本質に先立つ」ということです。
だから人間は自分の人生の目的を自分で決めなければいけない。これは万物の中で人間だけ。そこにこそ人間の価値がある。
これがサルトル先生の主張でした。
こじらせ中村さんが書いてる愛の話も同じような方向性ですね。
サルトル先生は世界的に一世を風靡しました。そのころ、左翼(マルキシズム)が大流行してて、それにドンピシャだったんですよね。いずれ革命が起きることは決まってる(マルキシズムでは歴史の進み方は一方向だから)のに、その革命を成就させるため一度しかない人生を懸けて歴史の捨て石になる必要はあるのか?という疑問に対して。
しかしサルトルの大流行は1960年代前半まで。レヴィ=ストロースとの論争で完敗します。以後は主役の立場から滑り落ち、見向きもされない存在になっていったのでした。
サルトルは人間の自由意志というものを前提としてたんですけど、人間というものは所属する文明や時代やいろんなものに染まりに染まっており、前提にできるようなもんじゃないよってことが暴かれていきました。レヴィ=ストロースは人類学から、フーコーは歴史から。その批判に対してサルトルは反論できなかったんですよね。
第二次大戦という悲惨すぎる経験のために人類は気が動転して、実存主義を哲学と勘違いしてしまったけど、正気に戻ってみたらあれは文学に過ぎなかった。そんな立場に転落していきました。
立花隆(何年か前に亡くなったジャーナリスト)は、20世紀には重要だと思われてたけど21世紀になったら重要じゃなくなる人物は誰か?という問いに、サルトルと答えました。
昔は大書店の西洋哲学の棚に行くとサルトルがずらっと並んでましたけど、今はあって数冊。いずれ消え去るかもしれません。
今では、愛とはどういうものかいくら立論しても、人間は遺伝子の乗り物でしょというロジックの前には歯が立たないじゃないですか。同じことです。
そこらへん、こじらせ中村さんはどう思ってるのでしょう。と、本人が見ることない場で公開質問状みたいなことを書いちゃいましたね。
愛を論じる農家と実存主義の転落を語る麻雀ライターはどっちが変な存在なんでしょう?
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