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来賀友志さんの思い出

5/10、息子さんによるFBへの投稿により、来賀友志さんが亡くなったと明かされた。入院から約10日。早すぎる訃報だった。

俺は来賀さんと深い仲とはいえないけど、だいぶ長い縁ではある。

そしてね、いろいろ失礼ないちゃもんつけられたり、ブロックされたり↓してるけど、

それでも嫌いじゃないんだよね。裏がない人だと思うし、作家として立派だったと思ってるから。

じゃあ、そうじゃない人は誰よ?というのは後で書くことにして、来賀さんについて個人的な思い出を書いていこう。

来賀さんは65歳。俺は57歳。8歳差。

さらに俺は社会人としてのスタートが遅く、来賀さんは早かったから、竹書房の仕事のキャリアは10年以上違ってて、大先輩だった。

来賀さんは26歳で「近代麻雀」の編集長になり、28歳で退社して漫画原作者になった。インタビュー↓では、

もっとダイレクトに麻雀の楽しさを広めるにはどうしたらいいのかと考えた末、28歳の時に退社し、劇画原作者の道へ入ったんです

劇画原作者 来賀友志 「麻雀劇画の基本は〝負けの美学〟だと思っています」【マージャンで生きる人たち 第17回】

とあるけど、そんなきれいな話じゃないと思う。

だってさ、その当時の麻雀プロとか作家陣で、来賀さんの編集長時代について言及してる人いる? 亡くなった小島さんとか、畑さんとか、タミーラとか、何ひとつ言及してないでしょ。見たことないよ。

だいぶ評判悪かったんじゃないか。当時の部下だった人から「あいつだけは許さん」と聞いたことあるし、来賀さんが編集長になるなら、もう原稿は書かないと言った連載陣もいたという。

昔の「近代麻雀」をけっこう持ってるので、ちょっと調べてみよう。

少し時代をさかのぼって、最高位戦八百長事件(知らない人はググってください)が起きたのが1980年12月。

一方の当事者である岡田和裕編集長は、それから2年間は編集長を続けてたけど、バックナンバーの奥付を見ると1983年から編集長が変わる。

※岡田和裕さんが辞めた理由は、元竹書房名誉会長から、岡田さんがクーデターを起こそうとしたと聞いたことがある。

岡田さんが辞めて、1983年1~2月号は荻野武雄さん。同3~5月号は梶川良さん。同6月号から江畑博之さん(来賀さんの本名)となる。

※荻野武雄さんはどういう人か不明。梶川良さんは漫画原作者であり、その後、竹書房傘下の編プロ経営者となった。

数ヵ月ごとに編集長が変わっていくわけだから、だいぶゴタゴタしてた。竹書房の麻雀漫画が生き残った理由として、社員がどんどん辞めるから新陳代謝がよくて、若い感性が取り入れられたとされてるからね。

来賀さんが編集長になった経緯は、「3年もいるからお前が一番の古株だ。編集長やれよ」くらいの理由だったんじゃないか。

来賀さんが編集長になった号を見てみよう。1983年6月号。

片山さんがデビューして間もない時期だった。ちなみに片山さんは来賀さんの3歳下。

こんな内容↓

当時は大学生がどうちゃらって特集が多かった。来賀さんに企画力があるようには思えねーし、編集者としてたいした経験値じゃねーし、大学生くらいの切り口しか思いつかなかったんじゃねーの。

当時は大学生だった忍田さんとかイガリンが載ってたりする↓

編集長名に江畑博之(来賀さんの本名)と↓

うっかり調べ出しちゃったせいで、直接的な思い出話じゃねーのに、余計なもんをいっぱい載せちまったな。こういうの大量に持ってるんだわ。先に進もう。

ここで話をまとめると、来賀さんは「近代麻雀」編集長をやったけど、業界内の人間関係は最悪だし、編集って仕事は合わねーと思ったのかもしれないし、社員時代に書いた原作に手応えがあったのか漫画原作者となった。

こういうキャリアの人って、ふつうは編集ゴロになる。漫画原作者になろうとするのは珍しい。

そして、まもなく始まった「あぶれもん」は素晴らしかった。

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