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昭和41年刊の時代遅れすぎた麻雀入門書

ちょっとした必要があって、「配牌する」という表現が正しいか調べるために麻雀の古書を見ました。

後の時代の本の種本になったやつを調べたかったんだけど、手元にねーんだよな。なので自炊してネット上で見られるやつをいくつか見ました。その中の1冊を紹介します。

まったく聞いたことない著者。けっこう奇天烈な内容です。この本↓

昭和41年初版。古いすね。昭和48年の時点で58刷もいってることがすごい。

昭和41年といったら阿佐田哲也登場前です。著者はこういう人↓

一見おとなしそうに見えて、どうしてなかなかにうるさい。何年かに一度というほど、めったには怒らないが、そのかわり、一旦怒り出すと手がつけられない。

剣道と弓道をたしなむ。その昔は、ヒマにまかせて尺八、琴、謡、ダンス、野球、テニスとなんにでも手を出した。今、前歯が二本義歯なのは、テニスであのかたい硬球を思いきりよく歯で受け止めた名残りである。適当に働き、適当に怠けもので、適当にスケベーで、遊ぶことならなんでも大好き、ホイホイとついてくるが、ここ数年、仕事が忙しくてなかなか遊ぶヒマもないとコボす。

中年ぶとりとでもいうのか、ここのところ、体重が毎年3kgぐらいずつふえてきている。いささか運動不足か。酒はやめてもう10年、いまでは年に数回、つきあいでやむを得ぬ場合に限る。それも二、三杯で盃を伏せて、あとは適当にゴマ化してしまう。電線会社の嘱託。子供は現在、幼稚園の男子一人。

どういう人なのかいまいちわからないプロフィールです。当時は著者の住所が載ってるのがすごい。漫画家の自宅住所が載ってたりしたよね。

著者は電線会社の嘱託で自由業だというから、この本みたいな実用書をいろいろ書いてたんじゃないでしょうか。ここに出てくる尺八、琴、謡、ダンス、野球、テニスってのが入門書を書いたジャンルなのでは。こんなテケトーな本が58刷までいっちゃう時代だから、いろんな分野の入門書をたまに書いてるだけで暮らせたんじゃ?

麻雀の本は麻雀の専門家が書けよ!って思うのが自然ですよね。当時は日本麻雀連盟、日本麻雀道連盟、牌棋院などの団体はあって、そういう団体の幹部が出す本が多数でしたけど、そういった団体とは無縁の文筆家が書く本もありました。官能小説家が書いた麻雀本でロングセラーになったやつとかあったし。

さて「配牌する」という表現を調べるためなので、配牌を取る部分についてまず見ました。入門書だから、そういうことが詳しく書かれてます。

するとこんな図が↓

こういう3階建ての王牌を見たことあります? 昭和50年くらいまではこういう方式だったんですよ。なぜこうじゃなくなったのか不明ですけど、裏ドラの普及と同じくらいの時期に変わったから、裏ドラを見るのに邪魔だったから? そもそも3階建て方式ってドラがない時代のもので、ドラができて裏ドラもできてって時代の中で、そんなに積んでらんねーよってなった感じはありそうです。

ここの説明がすごい。中国語の用語がやたら多いです。読んでもらいたいわけじゃないけど、そのまま載せましょう。

配牌 (ペイパイ=牌のくばり方)
さて親がきまりましたから、いよいよテーブルの上の井圏を崩してゆくことになりますが、そのためには次の方法をとります。

1 親は、河の中で骰子二個を同時にふります。 これを頭把(トウパ)とか前把(チェンパ)とかいい、 次にその出た目の数を頭から右回りにかぞえて、あたった人がもう一度骰子をふります。これを後把(ホーパ)といいます。

2 この頭把と後把とがふり出した、前後二度の骰子の目を合計した数だけ、後把が築いた城壁牌を後把の人から見て右端からかぞえ、最後にあたった一幢をぬきあげます。これを開門(カイメン)するといいます。

ぬきあげたこの一幢は、下段の牌を開門した末尾の上に重ね、上段の牌は、末尾からさかのぼって六幢目の上に重ねます。こうして三段重ねした二個の牌は、あらためて嶺上牌(リンシャンパイ)といわれますが、この二個の嶺上牌と、その間の六幢との計一四個の牌は、一括して王牌(ワンバイ)と名づけられます。

骰子シャイツ=サイコロ。
井圏チンチュワン=各家の前の17幢ずつ井桁に重ねた牌。
トン=山を積むときの単位。牌2個を上下段で1幢。

どうですか? すごくない? 仮親を決めて本親を決めてってやってるだけなのに、使ってる言葉が難しすぎます。仮東を決めるためにサイコロを振るのを頭把トウパあるいは前把チェンパといい、仮東の人が振るのを後把ホーパとかって聞いたことねーぞ。

城壁牌チョンピーパイという用語の読みはプロ団体の試験にしょっちゅう出てました。これはプロ団体受検者にとっては必須用語でした。

配牌の取り方に興味ある人なんていないと思うので先に進みましょう。みんな興味あるのは打ち方ですよね。

これがめちゃくちゃ奇天烈。

この手牌↓から七万をチーする話です。

ここで自摸をしたら、七万が出たとします。この場合、右端の東風牌は明刻として副露したものとします。本来なら七万八万九万の一順をつくり、八万一個を捨ててもよいのですが、河には索子が多く、万子と筒子はあまり出ていません。つまり、万子と筒子が危険であるとみなさねばなりませんから、八万は捨てず、数多い索子、つまりこの例では六索か七索のうちのどちらかを捨てます。

何を言ってるのかわからなくないですか? 最初の「ここで自摸をしたら、七万が出たとします」という文からして意味不明。七万が出てツモしなかったのか、スルーしてツモしたのか?

そしてね、この手牌から七万をチーするのは悪手だし、七万をチーして八万を切れないから他のリャンメンを崩すって、手が進むどころか原始に戻ってます。

こういう薄らぼんやりした方針で、切れそうな色を切っていくという方針じゃ、最後は手の内が孤立した危険牌だらけになってしまいます。

そもそもソーズは切れるけど、マンズとピンズは切れないなんてぼんやりした状況判断はありません。色ごとに筋で判断します。とくに危ない筋以外は切ってよろしい。というか、そうじゃないとアガれねーわ。

この話はこんなふうに続きます。

面子を崩してゆく上での心得としては、次のようなものがあります。
上家が捨てた牌だからといって、やたらと捨ててはなりません。それは下家がねらっているかもしれないからです。ですから捨てるのはこの逆に、上家や対家には必要だが、下家には不用という牌の見当をつけ、それを早く捨ててしまいます。
屍牌の多いものほど安全、少ないものほど危険な牌と考えます。

ねーわ。方針がぼんやりしすぎてます。くっそ弱そうで、こういう人たちと打ったら、ずっと自分のターンになりそう。

そもそも発想が今とは逆なんですよね。今はアガリから逆算して間に合うかどうかを考えます。昔は少しずつ様子を見ながら進んでいこうとします。

屍牌スーパイって古い麻雀書でしか見ない言葉です。場に出てる牌のこと。捨牌エリアを河というけど、あれって屍が浮かんでる河なんですよね。物騒だし、衛生状態悪そう。

別な例にいきましょう。

こんな手牌↓でどうするか。

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