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観戦記というボロ

今読んでる『大山康晴の晩節』(河口俊彦著)という本にこんな一節があった。


著者は山田道美八段のエッセイを引用している。

芸術家がその作品に全身をぶっつけていくように、盤上に自分を打ち込めたら――だが、私がどんなに対局中に一生懸命指しても、その後にはやはり恐しいママ空虚がきた。そして、苦闘の末作った棋譜は、観戦記というありあわせのボロを着せられ、死骸のように新聞に載って、捨てられた。

以後はこの本からそのまま転記する。

 観戦記というボロを着せられ、というあたり、山田が最も書きたい部分だったろう。これだけはっきり言ったのだから、当時の観戦記者達に少なからぬ衝撃を与えた。私もそれを憶えている。

 文学趣味のかかった観戦記者達は、内心山田の言い分をもっともと思った。しかし、どう書けばよい、というのだ? うっかりありのままを書いて棋士の機嫌を損ねたら、すぐ首が飛ぶ。当時、観戦記を書くのは、棋界のなかでは最高に率のいい仕事だった。割りのよい仕事は手放せない。そこでとったのは、徹底的な無視だった。山田の文など読まなかったふりをした。そうして今日に至るまで、観戦記は何も変わってない。それどころか、年々おもしろくなくなっている。

著者も俺も観戦記を書く立場の人。共感するね。

つまらない文章は罪だ。ただ埋めるための文章は罪。そう思ってるなあ。

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