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才能のあるなしは陽炎に過ぎない
大昔の話なんだけど、業界の先輩から「この業界に10年ぶりにセンスある新人ライターが現れたよ」と言われ、「俺はいなかったも同然かよ、ちくしょー」と思ったという話をここ↓に書いた。
その続編になる。
とある知人から、
・その業界の先輩(どいーん)の文章が上手いと感じたことはない
・センスある新人だった人(黒木さん)が上手いと感じたことはない
・上手いと思うのはダースー(須田良規さん)
という意見をもらった。そういう意見に対しても、部分的に自分なりの答えになるかなと思う。
フリーライターって資格が必要なものじゃないし、依頼があったら誰でもなれる。今なら自分からなることもできる。また、すごく文章が上手い人でも、他の仕事の都合とか家庭の事情などで辞めていくケースもけっこうある。
誰でもなれるもんだけど、何十年もやってるのはすごいというか、やはり高い適性があったと言っていいんじゃないかね。黒木さんは何十年もやってるじゃん。
バビロンズにいた人は合計10人以上はいたと思うけど、結局残ってるのは彼だけ(なのかな?)。彼は初期メンバーで、途中から社長になったから、そりゃ続けるだろーって見方もあるけど、それでも何十年も続くってのは、そうそうできることでもないんだよ。
じゃあ彼はやはりすごい才能の持ち主だという話?となりそうだけど、ちょっと待った。
というか、才能なんて気のせいというか、陽炎のようなもんだって話になるんだわ。
業界の先輩(どいーん)が黒木さんの文章をほめるのを聞いて、俺は「ちくしょー」と思うと同時に「確かにわかるな」とも思った。まねできない繊細さみたいなものがあった。俺は才能ないんだなとも思ったけど、だからといって何が変わるわけでもない。
当時の俺は、どうすれば文章が上手くなるかしか考えずに仕事ばっかしてる感じで、自分には才能ないのかな?と思っても、何が変わるわけでもなかった。目の前のことを粛々とやっていくだけ。まー実際には、仕事をサボりまくったりもしてたけど、それは才能のあるなしとは関係なく、もともとのだらけた性格によるものだった。
当時はメディアって紙しかなかったけど、ネットの発達とともに、ライターのありようは少しずつ変わってきた。紙ってスペースが小さいから、ほんのちょっぴりの文章を精魂込めて書くというスタイルだった。それがネットになると、もっと自由になる。
ネットの発達と同時に世の中も変化してきて、ライターはクリエイターの端くれから単なる文章を書く人になり、書いたものは作品からただの文章になった。昔は作家とか作品という扱いだったんだよ。
すると、文章の上手さよりも、ぶっちゃけてること、ストレートなこと、ハートが強いことが大事になった。昔は抒情的にまとめるのが上手いとされてたけど、そういう書き方はナルシーで気持ち悪いという扱いに変わった。
『科学する麻雀』という麻雀業界的にはベストセラーになった本がある。麻雀をデータ的にとらえた初の本で、だから意義があるとされていて、それはその通りなんだけど、じつはこの本って誰も語らない大きな長所を持ってるんだわ。
それは主張がものすごく極端であり、反対派のことは馬鹿呼ばわりする姿勢を貫いてること。こいつの脳内には数式しかないんだなってヒシヒシと伝わってくる。極北という感じで、主張がめちゃくちゃ明快なんだわ。体重を乗せた渾身の右ストレートになってる。
世の名著ってだいたいこんな感じで、スパッとしてる。わかりやすい。
こういうのは文章の上手さとは違う。著者の性格が大きい。文章が上手い人が名著を書くのではなく、ハートが強い人が書くんだよな。
『科学する麻雀』の著者は、その後ますますこじらせて、今では腐臭のするおっさんになった。人間性としてはまったくおすすめできないけど、こういう人が若いときに名著を書いてたりするんだわ。
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