文章力はどこから来るのか?
発売されたばっかの「世界最強麻雀AI Suphxの衝撃」という麻雀本。
その内容じゃなくて、文章の話だ。
表現がえれーシャープなのよ。ふつう、そんな表現は思いつかんだろーというフレーズが随所にある。
たとえば、P28から。
麻雀はどれだけ手広く構えても後手を踏むものであり、「後手を踏んだらどうするか」も大事ですが、「後手をどう迎えるか」もまた大切なこと。
Suphxの「後手を踏んだらどうするか」すなわち押し引きは割とスタンダード、あえて言うなら若干引き気味程度ですが、そのスタンダードな押し引きが可能になるよう、序中盤から牌が残されています。
という箇所があるのね。
Suphxは「後手を踏んだら」という甘い姿勢じゃなく、後手を踏んだときを常に想定し、序盤から残す牌を選び抜いてるという話だ。それを「後手を迎える」と表現している。積極性が高いと。このあとしばらく、「後手を迎える」話となる。
この「後手を迎える」というシンプルな表現があるから、言いたいことがスパッとわかる。これが長ったらしい言葉だと、こっちのイメージもぼやける。短いフレーズは伝達力が高い。
というわけで「後手を迎える」という表現が重要なんだけど、どうやってこういうフレーズを思いつくんだろう。こういう表現がいっぱいあるんだよね。
この部分は、
「後手を踏んだらどうするか」も大事ですが、「後手をどう迎えるか」もまた大切なこと。
が、ややあいまいだ。
「後手を踏む」と「後手を迎える」は、「Aも大事ですがBもまた大切なこと」という関係じゃなくね? 並列的な関係ではなく、対立的な関係なんでしょ? ここは、思考の煮詰め方が足りないか、説明不足か、どっちかが感じられる。
追記:「後手を踏んだらどうするか(後手になった後)」と「後手をどう迎えるか(後手になる前)」を並べているから間違ってない、というご指摘をいただきました。なるほど!
そういう不備を「後手を迎える」というシャープな表現が跳ね飛ばしてる。
同じくP28から↓
「リーチ」と聞こえた瞬間多くのノーテンの手牌から進めた価値が消失し、手牌価値≒安牌枚数に入れ替わります。この逆転現象が結構な頻度で発生するため、特に中盤以降は安牌を持つ必要が生まれがちです。
これもいい。価値の逆転がこれ以上ないくらいシャープに表現されている。言いたいことが超わかる。
よくよく見てみると↓
「リーチ」と聞こえた瞬間多くのノーテンの手牌から進めた価値が消失し、
とある「進めた」は、ちょっと飛躍があって言葉として変だよな。「進めてきた」がいいのかな。
こういうのはある。あるけど、他の箇所がシャープで完結だから結局わかる。誤読の可能性がない。
そもそも、
価値が消失し
というのがすげーシャープ。消えたことを強調したいわけだから、「消えた」より強い言葉を使いたい。「消失」がその役目を果たしてる。
ぼやけてる部分が圧倒的に少ないから、たまに変な部分があっても、言いたいことの全体像がよくわかる。
著者のお知らせさんは、前著のときも、すげーシャープな表現力があって驚かされた。マジでだいぶ驚いたわ。
今まで、いろんな人を見てきた中で、俺はジャーナリスト立花隆が書いてたことを、たぶんそうなんだろうなと思うようになった。
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