中学受験「偏差値40台」目指した子の最後の結末 という記事を読んで
こんな記事がある↓
それなりのアクセス数があるようで、ツイッターを見ると、感動の物語的な受け止め方をされている。
否定的な意見も見られるけど、それは中学受験そのものに対してだったり、偏差値が低い子にそんだけ金を使うってどんだけ豊かなんだ?みたいなものが多い。
これね、そんな単純ないい話ではないと思うし、私見ではいろいろ問題がある。それについて書きたくなったので、あまり長くならないよう箇条書き風に。
・中学受験の情報は偏差値強者のものばかりで、弱者側の情報が少ない。そういう発信事例にしたかったと。
→これは本当。意図はいいよね。偏差値50以下は情報が少なすぎで、暗黒の大陸となっている。
・内容としては、個人としてはいい結果となった。価値基準としては当たり前のこと。それを感動の物語風にしてる。
・中学受験の目的は、高偏差値校に入ることではなく、成功体験を持つこと。
→そんなの当たり前。
これは記事の問題点というよりも、世の中全体の認識のレベルが低い。18歳とか22歳の時点で偏差値を金に換算する交換レートは着実に落ちてきている。優秀な人が目立つのは、優秀さそれ自体によってであり、学歴のラベルの力ではなくなってきている。
・中学受験しておけば、より厳しい高校受験を回避できるから楽。
→異議あり。この子は高校受験の方が向いてそう。真面目だし努力家だし。
→世の中全体の構造が、大企業に入れたら勝ちという仕組みから、人生ずっと勝負という仕組みに移っている。受験や就職などの節目で頑張ることが人生の必勝法という価値観は過去のものだ。大人はまだしも、今から中学生になるという子に、そんな価値観を持たせてどうするよ。
・なぜ前夜に覚えたことを翌朝には全部忘れてしまうのか?
→けっこう普通の話だと思う。親は勉強できる子だったし、姉も勉強できたから、その常識でこの子を見てしまってる。
中学受験の四谷大塚の偏差値50は甘い世界じゃない。厳しい戦いの世界だ。普通の子にとっては中受はきつい。
中学受験で一番重要な科目は算数であり、算数は時間制限が厳しく、反射神経も重要となる。むき出しの才能の勝負であり、算数脳が強くない子(普通の子)にとっては厳しい世界だ。
昔、「中学受験で子どもと遊ぼう」という親による中受エッセイがあった。長男は、小6になってからの塾変更、しかもカリキュラムの大幅抜けという致命的なマネジメントミスをやらかしながらも、優秀だったので名門校に合格。
次男は、万全の状態でのぞみながらも、ずーっと苦しい戦いが続き、なんとか中堅校に合格。次男のときは本当に苦しかったと書かれてる。中学入学後も、それは続いた可能性もある。
こういうことは普通にある。優秀な子の常識で普通の子を見てしまうのは、子にとって悲劇であり、親子関係が悪化することも珍しくない。医者の家庭などによくあるケースだ。
まだ11歳の子どもであり、早熟さが重要になるから、自分の子がある程度優秀なのは当たり前という前提は本当によくないよ。むしろ、子どもなんて馬鹿なのが普通であって。
・この子は小3かな、エリート主義の塾に入り、小5の秋に少人数の塾に移った。
→手を打つのが遅い。小5はじめに移るべきだった。塾選びは子どもにはできないから親の仕事だ。親のマネジメントが甘い。塾選択は最重要事項であり、そこで失敗したら他のすべてが水泡に帰す。
→ただし、子ども本人の挫折感が十分に高まってないと、親の強権的な介入と感じられてしまう可能性もある。そこらへんは親じゃないとわからん。
・最後の模試では偏差値35。しかし40台後半の第一志望に合格できた。
→一番の問題点だ。実力より10以上も上の学校に入ったことになる。中学入学でリセットされる側面もあるから駄目なわけじゃないけど、危険な状態ではある。
合格ラインの上下5くらいの範囲が理想で、10以上も違うのは危険だ。これからがヤバいぞ…という雰囲気が記事に表れてない。
これはいい話じゃなくて危険な話なんだよね。中学高校時代が暗黒になってしまったら、中受自体が失敗だったと感じられてしまうわけで。
そもそも「高偏差値校がすべてではない」が一番いいたいことでありながら、実力よりずっと高い学校に合格できたから成功というのは、同じ偏差値信者に陥っている。成功ととらえるのはいいけど、危険だという認識を持つこと。
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