社会派ぶった三流ライターが書く文章は信用できない
15年前に書いた本をパラパラっと見てみたら
よく一緒に酒を飲むダンスのダチに、俺の教育の本を読んでみたいと言われ、Amazonで中古を買って渡した。
知り合いが書いた本を読むというのは、知らない人が書いた本を読むのとは違った味わいがあるんじゃないか。
渡す前にパラパラっと見てみたら、イントロダクション3ページはつまらんけど、プロローグ6ページは面白かった。
思ったのは、15年前の俺はなかなか腕利きのライターじゃねーかということと、三流ライターが思わせぶりに書いたことは信用できねーなということ。
いったい何が信用できないのか? それはちょっと長くなりますけどプロローグ転載のあとに。
ここから『教育格差絶望社会』(2006年)の転載↓
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セレブの子は顔立ちまでかわいい?
最近、妻がお受験塾で先生のパートを始めた。初日の感想としては、こんなことを言っていた。「まさか2歳児からブルガリって言葉を聞くとは思わなかったわ」と。
ブルガリとは、いうまでもなく高級ブランドだ。どんなシチュエーションでブルガリという言葉が出てきたのかと聞いてみたら、「ママはブルガリに行ってたけど、わたしはホテルにいたの」と女の子が言ったとか。おそらく、休みの日をどう過ごしたのかを誰かがたずねたのだろう。この1フレーズからリッチな家庭生活が垣間見える。
この塾は入会金だけで8万円。その時点で余裕のない家庭や本気でない家庭はシャットアウトされてしまい、セレブの集う空間となる。小学校受験のための塾で来るのは2~5歳児まで。妻はパートの講師を始めたばかりだから、受験クラスは任されない。だから2歳児を受け持っている。
2歳児のクラスというのは、3歳から始まる本格的なお勉強に向けての慣らし運転の時期だという。そこに子どもを入れる母親にとっては、その間にショッピングに行ったりする時間が取れるという魅力もあるのだろう。高い託児所ではあるけれども。
子どもたちの様子はどうなのかと聞いてみたら、予想外の答えが返ってきた。「それが、すごくかわいい子ばかりなのよ。服装もきれいだし、顔立ちもすごくかわいいの。そこらへんを走り回っちゃうような悪ガキみたいな子は1人もいないのね。何も言わなくても、みんなきちんと座ってるし」
2歳児といったら好奇心旺盛で、面白そうなものを見つけたらすぐ走りよって手を出してしまう年齢だ。そういったことがないように、すでにその段階からしつけられているということか。
この話を聞いたとき、ふと思い出したのは昔読んだ本の一節だった。
その本の著者は第二次大戦後、イギリス軍支配下の収容所に入れられる。そこでの体験から、日本人とイギリス人との違いについて考察し、その本『アーロン収容所」(会田雄次、中公文庫)は、1959年に発売されるやベストセラーとなったのだ。
こんなことが書かれていた。イギリス軍の将校と兵士は見た目からして違っており、すぐに見分けることができる。体が大きく、がっしりしているのが将校だ。栄養状態もいいし、学生時代から紳士のスポーツ・ラグビーなどで鍛えられているのだろう。だから兵士は将校に反抗することはできない。喧嘩しても勝てないと最初からわかっているのだから。
60年前の話ではあるが、階級社会のイギリスでは将校と兵士が見た目からまったく違っていたのである。それが現代の日本となって、お受験塾の子は顔もかわいいというのは、まさか階層が見た目まで左右する時代が到来しているとでもいうのだろうか。セレブ家庭の子どもたちは本当に頑立ちまでかわいいのか?
ゲーム漬けになる子ども
もうひとつ、これは知人に聞いた話だ。こちらは小学校4年生の男の子が主人公。
彼は学校から帰ると、夜中までゲームばかりしている。今年になって、いつも居間でゲームされていると邪魔だからと、親は個室を与えた。今では日曜日になると他の子も集まってきて朝から晩までゲーム三昧。
まったくの放任家庭で、完全なる友達親子だ。彼は父親のことを、「お父さん」や「パパ」ではなく名前で呼ぶ。親は共働き。子どもを構う暇がないわけではないが、子どもをしつけようという意識はない。ましてや勉強しろなどと言うはずもない。この両親は2人とも、うるさい親に育てられたのがイヤだったようで、自分たちはそうする気がないのだ。両親は、エリートばかりの兄弟・姉妹のなかで、はぐれて育った点が共通している。
この話を聞かせてくれた知人は、もうこの家に自分の子どもは連れていきたくないという。それは、この小学校4年の男の子が自分の子ども(3歳)に乱暴するからだ。この家では、親が子どもに注意することはない。彼が3歳児に乱暴している現場を見かけても、「あまりふざけちゃダメだよ」と笑って言うだけ。まさに放任そのものなのだ。
この方針は、この小4の子が幼児だった時期から一貫していた。彼は、何かしつけられたり、叱られたりした経験がまったくない。今の時代は、学校の先生も生徒を厳しく叱らないから、彼は叱られる経験がないまま大人になるのだろう。
この子が勉強できるかどうか聞いたことはないし、知人もそんなことは知らないはずだ。ただし一般論としては、親が子どもの学校生活に関心を持たない場合は、子どもが成績優秀ということはめったにない。優秀な子の親は、自分の子がどのように優秀なのか熟知しているものだ。子どものやっていることに親が関心を持つことで、子どもはその行為に意義を感じ、能力を伸ばす。
さて、どちらもこの数カ月以内に聞いた話なのだが、この2人の子どもの姿はきわめて現代的なのではないか。子どものありようまで二極化している現状をまさに象徴している。一方は、2歳から塾に行き、立ち居振る舞いから勉強まで教わる子ども。一方は、まったくしつけられず、おそらく中3まで塾に行かない子ども。生活スタイルも親の姿勢もまったく違う。
二極化する子どもたち
このところ“当たり前”の値段が急騰している。それは“当たり前”であるにもかかわらず、容易には手に入らない。この“当たり前”は“普通”と言い換えてもいい。それは“普通”であるはずなのに、まったく“普通”ではない。たいがいの人が手に入れることができるはずだったのに、今では限られた人しかそれを手に入れることができない。
この“当たり前”や“普通”に当てはまるものは、人によっていろいろあるだろう。結婚、就職、正社員、子どもを持つ、ほどほどの生活……。想像するものは、その人の年齢や立場によって変わってくるに違いない。
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