破壊の快楽
はじめに
モノを作ることに達成感といったプラスの感情を覚える人がいる。これに違和感はないだろう。世の中を見れば絵を描いたり曲を作ったりしている人が無数にいるからだ。
では、「モノを壊す」ことにプラスの感情を覚える人を想像できるだろうか?
これを聞いてバンクシーの「少女と風船」を思い出した人がいるかもしれない。軽くこれについて述べると、オークション完了後該当作品がシュレッダーによって部分的に破壊されたというものだ。ただし、今回私が述べたい「破壊」とは本質が異なると思われる。想像ではあるが作者は破壊という手段を用いて自身の意見を創作した、つまりシュレッダーという筆で主張という絵を描いたわけだ。これはれっきとした創作である。私の言いたい「破壊」とはもっと残酷なものなのだ。
破壊によって生じるもの
あなたはモノを破壊したことはあるだろうか?データや概念でもいい。子供の頃、親から貰ったおもちゃを壊してしまった、間違ってゲームのデータを消してしまった、些細な言い争いから友達との縁を切ってしまったなどなんでもいい。おそらく何かはあるだろう。その時どう感じたかを尋ねたい。多くの人はその時「取り返しのつかないことをしてしまった!」と思っただろう。それと共に心地よい背徳感を味わった人はいないだろうか?親から買って貰ったおもちゃなら、そこには親の労働や自分への愛情といった成分が込められているはずであり、それを破壊してしまうことは自分にとっては精神的な大罪である。それを行ってしまう罪悪感、そしてそれをかき消すように訪れる防衛機制が快楽をもたらすのだ。また大切なものを壊してしまったが故に大切なものを守る義務がなくなるという歪な現象に由来する精神的な解放感もプラスの感情を促進する。壊れかけのおもちゃなら捨てにくいが、完全に壊れてしまったおもちゃなら捨てられると言った感じだ。
破壊によって生じるもののまとめ
罪悪感
罪悪感に対する防衛機制(現実逃避など)
保護の義務からの解放
性癖などを当てはめる
さて、防衛機制・保護の義務からの解放が最も大きいものは何か考えると、命や身体ではないだろうか?それを破壊する。これこそ猟奇的性癖だろう。四肢切断、残虐な拷問といった普通なら忌避すべきモノを好むのは破壊による快楽の側面があるのではないだろうか?
上で述べたのは物理的なものであったが今度は精神的なものを考えてみよう。NTR(寝取り)やBSS(僕が先に好きだったのに)は自分が構築してきた関係を他者によって破壊されるといったものだ。破壊者は他者であるが、同様の議論に帰着できるだろう。NTRやBSSの他に感傷マゾも同様な側面があると考えるがさらに高次のものになるのかもしれない。感傷マゾの第1段階は鬱展開で気持ちよくなることであり、鬱展開は物理的及び精神的破壊を伴うため、まさに破壊による快楽と強い関わりがある。第2段階は、自分の快楽のために虚構の存在を消費していいのかという偽りの罪悪感であり、破壊による快楽が正しいのかに疑念を持つ段階とも言えるだろう。最後に第3段階はその偽りの罪悪感をヒロインに糾弾されたいというもので、破壊による快楽を得ている自分を破壊してもらうことで破壊による快楽を得るわけだ。これはトリガーと結果が一致しているため半永久的に破壊による快楽のループを回すことが出来てしまう恐ろしいものである。
最後に
書きなぐった文なのでガバガバなのは許して。