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チェン・カイコー監督『黄色い大地』  ある思い出

 今回の投稿は、映画自体に関する批評や紹介ではない。
 いまでは研究者になった人の、ある思い出話だ。

 今回の授業では、チェン・カイコー監督『子供たちの王様』(1987年)を見せ、学生に意見を聞いた。
 本作品は1970年代、文化大革命末期のある農村の中学校が舞台である。生徒は教科書も支給されておらず、先生が黒板に書く字を書き取って授業を進めていた。作文を書かせれば、新聞の社説を丸写しするような時代である。
 新任の若い先生は、教科書に沿った教育をやめて、生徒に身近なことをテーマに作文を書かせ始める。「何も写すな」ありのままを書け、というのだ。写すことは、学びではない、自分で考えるべきだというメッセージを投げかける。

 授業準備のために、チェン・カイコー監督の『黄色い土地』を観た。舞台は黄土の貧しい農村で、水を手に入れるためには黄河まで歩かねばならない。そこにある役人が民謡の採集のために派遣されてくる。彼が黄河まではどれくらいあるか少女にたずねると、彼女は「十里」(≒5キロ)と答える。彼は少女が十里歩いて汲んできたその水を、足を洗うために使っているのだった。
 この「十里」ということばを聞いて、ある記憶がよみがえってきた。わたしは、10数年も前に、この会話を耳にしたことがある。当時、NHKラジオの中国語講座はチェン・カイコー監督の映画を教材にしており、まさにこの「十里」の場面を紹介していた。この番組では、さらに同じ監督の『大閲兵』を紹介し、行進する軍隊を撮り、ただひたすら撮ることによって軍隊という集団の意義を問いかけた作品であると紹介していた。
 しかし、当時のわたしは物語の全体像も、監督の名前も、ついに知らないままだったのかもしれない。なぜなら、あの当時のわたしは、NHKのテキストを買うお金さえもなかった。たかが500円が出せなかったのだ。ラジオを前にひたすら音声を聴き取り、ノートに書いて中国語を勉強していたのだから。
 いま考えれば、当時わたしがやっていたことは、『子供たちの王様』と同じような「写す」学習法である。それどころか、音だけを聞いて写したものは正しい表記かさえもわからない。それはおそらく高校生の時で、大学に入ってから改めて中国語を勉強した。わたしの勉強法は、映画の中の生徒たちよりも危うかったのだろうか。しかし、その時に聞いた内容は、今でも思い出すことができる。
 写すことは、学びではない。大学に入ってからの学びの本体は、「写して」得られるものではない。自ら考え、他人と議論して得るものが、本当の学びであるはずだ。過去から問いかける声は、いまだにわたしの耳に響いている。


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