
瀬戸内歴史探訪~「芸予要塞」が語る戦いの歴史~
芸予要塞へ
2月5日、有休を使って愛媛は今治の地に赴いた。1人旅である。昨年コロナが流行る前に松山へは行ったのだが、瀬戸内7県を14日間で回るという長期スケジュールを組んだため、個別の都市には各駅停車で立ち寄ることができなかったのである。今治も通り過ぎてしまった。
そのため、焼豚卵飯も本場で食らう目的も兼ねて、今回コロナ対策を万全に講じた上で今治の地に降り立ったというわけである。
今治に着いたらまず、今治城に歩を進めるのが正しいだろう。勝手にそう思っているだけだが、やはり初手は今治城である。白楽天で今治発のB級グルメ「焼豚卵飯」をお腹にチャージして向かった。
もちろん、今治城の他にも、タオル美術館や来島海峡大橋など、興味深いスポットは数多くあるのだが、今回今治を調べていて目に留まったのが、来島海峡に浮かぶ小島(おしま)という島であった。
今治城を訊ねた後、その小島の情報を収集・訪問するべく、私は今治駅へ戻った。
小島と芸予要塞
来島海峡の西側に位置する、字のごとく周囲が3kmの小さな島である小島(おしま)は、明治後期に建設された要塞で知られている。
1890年代後半、日清戦争に勝利した日本は、来たるロシアとの戦争に備えて、一層緊張感を高めていた。当時の陸軍は、ロシア海軍が下関を経由し京阪神に攻めて来ることを危惧し、瀬戸内海に要塞を築くことを考える。それが小島に現在も残る要塞というわけである。通称「芸予要塞」と呼ばれている。
「芸予要塞」と呼ばれる要塞は、実はこの小島だけでなく、大島・伯方島・大三島を挟んだ広島側に浮かぶ大久野島にもある。多くの人によって大久野島と言えば、ウサギのイメージだろうが、実は毒ガス関連の施設や砲台があったことからも戦争の歴史を感じられる場所となっているのである。
小島には、北部に司令塔と砲台が、中部に砲台と兵舎が、南部に砲台と弾薬庫、兵舎がそれぞれ点在している。現在では、ヤブツバキが植えられた「椿の散歩道」と呼ばれるハイキングコースが整備されているため、南部から中部、山頂、北部の順に約1時間半ほどで回ることができる。
小島の要塞建設は、1899年(明治32)から建設が開始され、翌1900年(同33)春には完成したとされる。アジア歴史資料センターにて閲覧できる、現在防衛省防衛研究所に所蔵されている歴史資料を繰ると、1898年(明治31)から、人員及び施設に関する記述の資料が特に多く確認できる。わずか2年ほどの期間に集中的に建設された「突貫工事」による要塞なのである。
それでは、実際に現在も残されている島の遺構を見ていこう。
「使われなかった戦いの遺構」
船着き場から歩いてまず到着するのは、南部の発電所である。発電所は北部にもあるが、北部の発電所よりも綺麗な状態で残されている。こちらは南部砲台のための火力発電所である。建物は煉瓦造りの平屋建てとなっている。
続いて歩を進めると、南部の砲台跡に着く。ここには、12センチカノン砲二門が配置されていた。砲台は花崗岩の石造りで、砲座は散歩道より一段高いところに二門並んで設けられ、海上からは砲身が見えない構造になっている。
島の中心部には、中部砲台跡が確認できる。ここには、28センチ榴弾砲六門が配置されていた。砲座の先、写真の奥には、山腹に横穴を掘るようにして地下兵舎が設けられている。
写真手前の階段を登ると、島の中心に置かれた司令塔跡にたどり着く。頂上からは来島海峡を一望できる。
中部から散歩道をさらに進むと、北部の砲座跡に着く。こちらには、24センチカノン砲と9センチカノン砲がそれぞれ四門ずつ配置されていた。
北部の砲座跡の先には、南部同様、発電所が確認できる。南部のものと比べて、こちらは草木が生い茂り、状態もあまり良くない。
また北部発電所の隣には、北部の地下兵舎も確認できる。
北部の砲座跡・司令塔跡を抜けると、来島海峡を眺めながら海岸線を歩いて島の南部に戻る。
芸予要塞の廃止
結局のところ、この芸予要塞は実戦で使われることはなかった。とはいえ、南部と中部の榴弾砲のうち二門は、日露戦争の際に旅順の地に送られ、同地攻略に貢献したとされる。
1924年(大正13)11月に当時の陸軍大臣・宇垣一成宛に参謀総長・河合操が作成した「芸予要塞廃止に関する件」と題された資料には、次のように記されている。
芸予要塞ハ由良要塞ト相俟チテ内海東部ノ領有ヲ確実ニシ本州四国間ノ連絡ヲ確保スル為建設セラレタルモノナルモ今ヤ豊予要塞ノ一部完成シ内海ニ対スル敵ノ企図ヲ制限シ得ルニ至リタルヲ以テ内海内ニ於ケル陸軍ノ防備ハ其要点タル広島湾要塞ニ止メ芸予要塞ハ之ヲ廃止スルヲ適当ト認ム
(アジア歴史資料センター/防衛省防衛研究所所蔵資料「陸軍省軍事機密大日記」より「芸予要塞廃止に関する件」大正13年11月17日~11月26日/陸軍大臣宇垣一成宛陸軍参謀総長河合操作成/レファレンスコード:C02030185600)
すなわち、豊予要塞の建設に伴い、芸予要塞は廃止することが適当と認められたのである。豊予要塞とは、大分県と愛媛県に挟まれた豊予海峡を防ぐ目的で1920年代前半から30年代前半にかけて建設された要塞である。
日露戦争、そして第一次世界大戦が終わり、時代も移り変わる中で、瀬戸内海をどう守るか、それぞれの要塞の存在意義も変化していき、新設・廃止が進められたのである。
芸予要塞は同年12月に完全に廃止となった。
戦争の歴史を知る旅
今治駅からバスとフェリーで1時間もかからない場所に浮かぶ小島。来島海峡を望むその島には、戦前の生々しい戦いの歴史の記憶が遺されていた。
1930年代に入り、戦争の足音が聞こえる中で、瀬戸内海は国威発揚の目的で国立公園に指定されていく。
今日、美しい海の景色を見るなかで、時にはこのような遺構を訊ねてみるのも良いかもしれない。
多くの人が知らないスポットだからこそ、ゆっくりと、「歴史」と対話することができる。
(終)
※各施設の説明は「芸予要塞・小島砲台跡の解説シート」(土木学会HP)を参照した。
※芸予要塞の詳しい観光案内は「芸予要塞観光ガイド」(今治地方観光協会)及び「芸予要塞跡」(今治市HP観光情報)を参照してください。
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