封筒 短編
これは、私の知人の話なのだけれどね。
彼の名前を出すと後で怒られそうだから、此処では彼の名を、そうだなぁ……Aとしようか。
Aは俗に言う放浪人でね。定職に就かず、いくらか職を転々としては、彼、顔が良いから、女の家に上がり込んでは身を寄せて、次の日には、また別の女の下へ転がり込んで身を寄せて。まぁそんな日々を過ごしていたんだね。
ある日のこと、Aは、ガールズバーからいつものように女の家へ向かっている途中に、路地裏の片隅で酔い潰れた中年の男をみたんだね。その男は、無防備にも鞄やらをその辺に放り出して、ゴミ袋にもたれ掛かって寝てたんだ。
「旦那さんよ。こんな所で寝ちまうなんて、飲み過ぎも大概にしといた方がいいぜ」
Aは男に声をかけてみたものの反応が無い。そっと男から離れようとしたときに、ふと辺りを見ると、放っていた鞄から分厚い封筒が出ていてね。Aは、少し興味が湧いて封筒をそっと取り出して、中を見てみたんだ。
すると、なんと帯つきの札束が一束入っていてね。Aは放浪人の身だから、お金なんて無いに等しい。そんなA、頭の中の悪魔がもう、それはそれはうじゃうじゃと湧いてしまって、気がついたらその封筒を握り締めたまま、女の家へ転がり込んでしまっていた。
Aはその日、生まれて初めて盗みをしたんだ。
女の家へ着いても、動揺していて、心臓の激しい動悸を抑えるのに必死で仕方がなかった。高揚感と罪悪感と欲望に駆られた気持ち良さが、彼を一気に包みこんでしまったんだね。
いつもと違うAの様子に、女が、どうしたの? と聞いても、「何でもない」なんて言って、コップの水を一気に飲み干してしまった。
やっとのことで少し落ち着いてきたAは、封筒をジャケットの内ポケットに無理やり突っ込んで、誰にもバレないよう、取られないように守って、その日は寝る事にしたんだね。
翌朝、Aは目覚めると、すぐにジャケットの内ポケットを触って、昨夜のあれが夢じゃない事を再び確信し、女にも取られていない事に安心した。
「本当に何もないの?」
と、女はもう一度Aに聞いてみたけれども、Aは何もないの一点張りで、次第には聞いてくる女に暴言を吐くまでになった。
それから、Aはやっぱりまともに仕事せず、女の家で酒を浴びたと思えば、今度はフッと外に出て、しきいに周りを気にしながら、近くの路地にあるガールズバーへ行って、いつもよりも羽振りよく豪快に、酔った勢いでキャストの女の子を口説くなんかして、どんどん封筒のお金を使い込んでいったんだね。
ある時、Aがガールズバーから出たところで、泥だらけになりながら、血相を変えてゴミ袋やその周りを漁り、道行く人に声をかけ、必死に何かを探している男の姿があったんだ。それは何を隠そう、あの時、路地裏で酔い潰れていた中年の男だった。
Aはさっきまでの酔いが一気に醒めるほど、血の気が引いただろうね。男が何を探しているかを察したAが、早々とその場を去ろうとした時、中年の男が声をかけてきた。
「そこのお兄さん。少し前にここらで封筒をみていないかい? 分厚いやつなんだけど」
Aは、滲み出た脂汗を拭き取り、何とか紡ぎ出した声で
「いえ……知りません」
とだけ言って、逃げるようにその場を去った。
盗みをした事がバレるのが怖くなったAは、その後、封筒を誰もいない時間帯を狙って、あの路地裏に戻そうと考えた。けれども、彼は、かなりの額を使ってしまっていて、手元に残っているのは、もうほんの二割程度だった。
そこでAは、なんとか考えた末に、封筒だけを戻すことにした。苦肉の策だが、男に「何処かの誰かが中身を取って行き、封筒だけが近くに落ちていた」と思わせる作戦を思いついたんだ。
深夜、Aはさっきの路地裏に、空の封筒を手に持って赴いた。
そして、自然と風で飛んでいってしまったように見せる為に、ゴミ捨て場から少し離れた奥まっている所にある消火栓の土台に封筒を引っ掛けたんだ。
彼は安堵のため息をつくと、男が来る翌日まで女の家に戻って待つ事にした。
さて、翌日だ。Aが恐る恐る路地裏に向かうと、案の定、あの中年の男が現れた。Aは、少し離れた所で、男を静かに覗き見ることにした。
男は、またいつものように泥だらけになりながらゴミ袋の周囲を漁っていたんだね。
暫くすると、男が奥にある消火栓で手が止まった。そして見事にAが仕掛けたあの封筒を見つけて喜んだ訳だが、喜びも束の間、中身が抜かれている事を確認して、肩を落としてその場を去って行った。
Aは、その光景を見て、全てが終わったと心底安心し、自分を包んでいた不安や罪悪感なんか忘れて、その日のうちに残っていた二割のお金をガールズバーで使い果たしてしまった。
それから数年経ったある日、私はAと会う事になった。場所は、繁華街から少し外れた路地にあるガールズバー。私達の他にも、歳が同じぐらいか、それより上の中年の男達が何人か居たような記憶がある。可愛いキャストに奥のバーカウンターに案内されて、私達は酒を交わしたんだ。
そこで私は、Aの口から、今まで話していたこの話を聞いたんだ。この店を出たところで帯つきの札束を拾った事、封筒だけを戻した事。そしてそんな放浪人だった彼が、入り浸っていた女の一人と結ばれて、なんと定職も決まって真面目に働いているということも。
「いやね、まさか路地裏に帯つきの封筒が落ちてるなんて思いもしなかったよ」
酔ったAは私とキャストに大声で笑いながら言ったんだ。Aは分かる通り酒癖が本当に悪くてね。真面目に働くようになっても、そこは変わらないんだと思ったね。それで、ひと通りの話を終えて、私も頃が良くなってきたので店を出たんだ。
それが私がAにあった最後だと思う。
さて、少し話も盛り上がってきたけれど、彼、この後どうなると思う? 私も彼からこの話を初めて聴いたときは、のちにこんな展開になるとは思いもよらなかった。
暫く時が経って、私は仕事の忙しさでAや友人達と連絡をとっていなかったのだけれど、風の噂で、Aが会社を辞めて、それで女と別れて、また放浪人に戻ったという事を耳にした。
私は、ひと通りの仕事が落ち着いたので、Aと会ったあのガールズバーへ足を運んだんだ。
そして、色んな話に華を咲かせている内に、やっぱりAの事が気になってね。何か知っているかとキャストに聞いたら、
「Aさんは、噂通りに、会社をお辞めになって、その事が原因で、奥様ともお別れになってしまって。」
と話してくれたんだ。
何で辞めたのかも知っているかい? と聞くと、
何やら、あの日、Aと私がここへ来た日が原因だと言うんだ。
どうもあの日、私達が騒いでいた後ろの席で、なんと、話に出てきたあの中年の男が酒を呑んでいたらしくてね。Aは気付かずに、封筒の話の真相を得意げに話してしまったみたいだった。
それだけならまだ良かったものの、運の悪い事にね、その中年の男、Aが務める事になった会社の偉い人だったらしくてね。あの日、私がAと別れた後に辞める事になったらしい。
と、まぁなんとも言えないAの結末を聞いて、私はひどく落ち込んだけれどね。風の噂では、今でもAはどこかを渡り続けているらしい。
路地裏のたった一枚の封筒が彼を変えてしまったんだね。
さて、Aの話はこんなところでお終いなんだけれども、実は、私もこの辺りで大事な封筒を落としてしまってね。君は見ていないかい?